関ケ原の戦い解説(上)
この記事を見ていただき有難うございます。
どうも高虎と申すものです。
突然ですが皆さん関ケ原の戦いが起こった日ってご存知ですか?
慶長5年(1600)9月15日(旧暦)です。今と昔は使っている暦が違うので現代の曜日感覚に当てはめるならその1か月以上後の10月21日です。
まぁそんな感じで、旧暦ですが関ケ原の戦いが起こった日にちが近いので関ケ原の戦いについて東軍西軍両立場からの視点を踏まえながら今回はなぜ天下分け目の戦いが起こるに至ったのかを解説していきます。
多分2回くらいに分けられて投稿されます。
※注意書き 通説をもとに関ヶ原について書いていきます。諸説あり、事象はあったりなかったり、後世の創作だったり。
関ケ原の戦いの経緯
1.秀吉の死
まず最初に関ケ原の戦いで良く勘違いされがちなのですが、関ケ原の戦いは豊臣家に代わり徳川家が天下を取ろうとした末に起きた豊臣家VS徳川家のような構図からくる戦いではなく、あくまでこの時点では豊臣家ナンバー2を決める戦いです。(結果的にはこの戦いにより決定権などは徳川に移っていきますが)
関ケ原の戦いについてどこから話を進めていくか本当に悩みましたが、【天下人豊臣秀吉の死】、ここから話を始めていこうと思います。
真田丸の秀吉(晩年の秀吉描写が良くできていたと思う)
個人的には秀吉と言ったら竹中直人のイメージが強い
ちなみに近年の大河の秀吉トレンドは今までのような明るい秀吉ではなく闇の部分ににスポットが当たっていることが多い。
(関ケ原の戦いの2年前くらい)1598年、天下人である豊臣秀吉が死亡します。豊臣政権は今まで秀吉独裁の政権でしたが、子の秀頼はまだ6歳と若くとてもじゃ無いが豊臣家を運営できるような能力は備わっておりません。秀吉には秀吉に近しい親族は居らず(弟は病死、甥は粛正)、秀吉の出生ゆえに古来からの家臣もあまり多くはありません。そんな中秀吉は年若い息子を五人の有力な大名(五大老)と、有力な直臣(五奉行)の合議によって補佐していく体制を整えました。
秀吉「ということでワシが死んだらみんなで話し合って進めてね」
秀吉「家康君、ほんと秀頼のこと頼むね、君しか頼りになる人いないんだから」←
家康「承知」
↑晩年の秀吉
そんな中秀吉は死ぬ間際律義・実直で有名な徳川家康に秀頼を託し、このことから徳川家康は五大老の中でも特別な立ち位置となります。
【※重要】 今回の話は五大老と五奉行中心に話を進めていくので是非この10人は頭に入れておいてください。
五大老メンバー
・徳川家康(自家製味噌製造マシーン)関東が拠点
・前田利家(すごいほうの前田) 北陸が拠点
・毛利輝元(どっちつかず)中国地方が拠点
・上杉景勝(真面目) 東北地方が拠点
・宇喜多秀家(誰!?) 山陽の一部が拠点
五奉行メンバー
・石田三成(嫌われ者)行政担当
・増田長盛(頭おかしい人) 土木担当
・前田玄以(地味な方の前田)宗教担当
・長束正家(誰!?)財政担当
秀吉亡き後の豊臣政権の課題は朝鮮からの撤兵であり、諸将に秀吉の死を知られないよう、そして現地の人間の士気に関わらないようにと秀吉の死は隠されました。この撤兵時に石田三成含む五奉行と朝鮮に渡った加藤清正や福島正則などと関係が悪くなり豊臣政権内で不満が募ってきます。
石田三成は元々秀吉の家臣であり、諸将と秀吉を繋ぐパイプ役のようなものを担っており、秀吉の死後直後から家康による豊臣家乗っ取りを恐れ、家康の暗殺を試みたりしています。一方家康は有力諸将の家を訪問したり、秀吉の遺言である大名同士の婚姻の禁止を破り伊達政宗や福島正則などの有力な諸将と関係を結び、両者の対立は深まっていきます。
※ 青 東軍に付いた人 緑 徳川家康の譜代の家臣or親族(東軍) 赤 西軍に付いた人 紫 内応軍
家康の非常に広い人脈がうかがえる
ただそんな伏見での家康の独断に豊臣秀頼のいる大坂では前田利家を中心とした四大老及び五奉行は家康を糾弾、一時前田家と徳川家の邸宅に諸将が集まるなど一触即発の空気になるが不利を悟った家康は和解に至った。利家存命中は政治の核が伏見(家康)と大坂(利家)に分かれ豊臣政権は家康と利家のにらみ合いは起こったものの衝突には至らなかった。
しかしそんな中家康は後に東軍となる諸将と関係を構築していき、その裏で毛利輝元は浅野長政以外の四奉行と盟約を結ぶなど暗に関ケ原の対立関係が築かれつつあった。
2.利家の死
家康と利家の対立の翌年、利家が死去すると段々と豊臣政権の溝は深くなっていく……。
とはならず
七将「三成嫌いだから殺す」
利家の死の翌日(正確には利家が死んだ日の夜)← に豊臣家の七人の重臣によって石田三成邸が襲撃される事件が起きます。
三成はこの襲撃から逃げ延び、家康に助けを求め家康の仲介もあってかこの騒動は解決に至るものの、騒動の責任を取り石田三成は居城である佐和山城に蟄居、実質的に三成は失脚し五奉行は四奉行になり、騒動を収めた家康の豊臣内部での地位は向上し、家康は秀吉の伏見城を居城とせよとの命を破り秀頼のいる大坂城に入ることとなります。
利家亡き後前田家の後を継いだ前田利長が家康の勧めもあってか加賀に帰国、秀吉の死の直前に会津に移動となった上杉家も領地経営のために会津に出向かなければならないなどこの時点で五大老も三大老化していた。
家康が伏見から大坂城に移った翌日、五奉行の一人である浅野長政と豊臣家家臣大野長治、前田利長の従兄弟である者らによる家康襲撃計画が五奉行の増田長盛(※これから先の増田長盛の行動に注目してみよう)の密告により露呈、家康は関係者を処分した後にその首謀者を加賀の前田利長だと推定し、加賀征伐の準備を始める、これに驚いた利長は母を江戸に差し出すなどし家康に追従する形で和解に至っている。また今回の事件に関与したと家康に【疑われる】メンバーの殆どは江戸に人質を送っており、関ケ原の戦いで殆どの者は東軍に付くこととなる。
また事件に五奉行の一人である浅野長政も関わっていたことにより実質四奉行であった五奉行は三奉行化、現状三奉行、三大老化しており、秀吉の唱えた合議制の政権は崩れつつあった。
関係ないけど軍師官兵衛の家康が近年の大河家康の中で一番すこ
(最近の大河家康トレンドは老獪な家康ではなくコミカルな面が前面に出されていることが多い)
3.上杉征伐
上杉景勝は秀吉が死の直前に会津に移動となり、所領である佐渡島はそのままの支配が認められたものの越後は一部しか与えられず新天地の領地経営をしなければならない状態であった。会津の居城である鶴ヶ城は手狭と考え、新たなる城である神指城の築城を指示した(この城には軍事的な意味合いより経済効果を目的として築城しようとした)。上杉家は東北の伊達家、関東の徳川家の抑止として会津に移されており、徳川家や伊達家とは対立せざる負えない状況であった。
そこに上杉旧領である越後に入った堀氏に内政の妨害行為をしたと捉えられるなど堀氏とも関係が悪化し、堀氏も上杉家の行動に謀反の疑いありと家康に伝えられたりと周囲に敵を抱えていた。
また上杉家と徳川家の対立が濃厚になるとパイプ役であった重臣が徳川家の回し者として憚られた結果重臣が徳川家へ出奔するなどの事件が起こる。
家康は上杉家の城を築城するなどの行動から上杉家を豊臣家に敵対する者と定め、上杉征伐を行おうとしたが周囲からの反対があり、一度上杉家の言い分を聞くために当主である景勝の上洛を求めだがこれを景勝はこれを拒否。
五奉行の一員である長束正家と前田玄以が征伐の中止を嘆願するがそれを無視し、家康は豊臣家として諸将を集め上杉家討伐に向かうこととなる。
4.三成挙兵
1600年6月に徳川家康が征伐の為中央から離れ、大谷吉継も征伐に参加しようと居城の敦賀城(福井)を出立し軍を進める中、同中にの佐和山城(滋賀県)に寄ることになる。佐和山城で五奉行である石田三成と増田長盛←から打倒家康計画を伝えられ、当初は家康に接近しようと計っていた吉継だが三成との仲などもあり三成に協力、この会談で石田三成は大谷吉継の進言に従い西軍の総大将に就かず、五大老の中で家康に次ぐ実力者であった毛利輝元を総大将にしようと画策し、三成に接近している毛利家の将安国寺恵瓊に働きかけを行った。輝元は恵瓊の説得を快諾し、一族や家臣に相談などなく独断で総大将に就くこととなる。家康不在の大坂には三奉行の依頼もあり毛利輝元が入った。
安国寺恵瓊「三成方の総大将になるのです」
毛利輝元「うん分かった」
吉川広家「いやいや、この戦い絶対家康が勝つから、まじで、このまま行ったら毛利潰れるから」
毛利輝元「マジで?」
吉川広家「私が裏で家康方と通じて事情説明しておくので毛利はどうか積極的に西軍として動かないように」
総大将であるにも関わらず毛利家は積極的に親三成派として行動した安国寺恵瓊と積極的に東軍に内応し毛利家の身の安全を計ろうとした親家康派である吉川広家、そして関ヶ原で東西両軍が戦いのキーマンとして取り合うことになる小早川秀秋を抱えており家中が真っ二つに割れていた。
このことで毛利家は西軍として積極的な行動を行わなくなり、輝元は大坂城に入ってから一歩も動くことは無かった。
一方徳川家康は上杉征伐の途中に東海道に城を構える武将たちを訪ねて回るなどの事を行いつつも江戸に到着し諸将たちに上杉攻めの指示を出したりしている。
【西】7月17日 豊臣三奉公は徳川家康を糾弾する手紙を全国に送付、それと同じく大坂にいる大名の妻子たちを人質として利用しようとするも、妻子達を取り逃したり自刃させたりするなど失敗が相次いだ
【西】7月19日 西軍は徳川家康の家臣である鳥居本忠が留守居を務めている伏見城を攻撃、敵対した丹後の細川幽斎の籠る田辺城にも攻撃を開始した。
西軍は主だった兵力が集結する中、伏見、田辺両城の城攻めに苦戦するなどと思うように城攻めが進まなかった。
【東】徳川家康は西軍挙兵の情報を奉行衆である増田長盛から伝えられていたが←情報が不確定なため7月21日には会津攻めのために江戸を出陣した。
7月24日 西軍挙兵の情報を確かなものし、下野国小山の地で上杉征伐を中止、翌日に従軍していた諸将と軍議を開いた。
またこの時点以前に信州の武将である真田昌幸・信繁(幸村)親子が長男信幸を遺し征伐軍からから離反するなど一部の諸将は西軍挙兵の情報を事前に得ていたとされている。
家康「なんか西軍が挙兵したらしい、向こうが秀頼様持ってるから儂ら豊臣軍から私軍になっちゃったわ、西軍に味方したいなら止めないで西軍に付くのは正統や、好きにいってええで」
福島正則「三成嫌いだから家康側に付きます」
豊臣恩顧の大名「私たちも家康に味方します」
福島正則「よっしゃ、ワイの発言でみんな東軍に付くって言ったで、これは東軍の中でも優位な立場になれるで」
山内一豊「私の領地差し出します、西軍討つためには東海道通るんやろ必要やろ?」
東海道の城主達「私たちも差し出します」
小山での評定(軍議)では徳川家康は洗いざらい現在分かっている情報を諸将に伝え、また西軍に人質や恩義などがあり西軍に味方したいものは好きに味方をしてもいいと発言、軍議の中で豊臣恩顧の武将の筆頭格である福島正則が家康方に付くことを表明するとその場の殆どの諸将も家康方に味方することを表明、このことにより福島正則が功労者になりかけたものの、山内一豊が領地を差し出すとの表明、それに続き東海道に領地を持つ武将たちは相次いで家康に領地を提供、これにより徳川家康率いる東軍は東海道に敵対者を出さず無傷で西軍領へと侵攻できることとなった。
【西】8月1日 伏見城落城 鳥居本忠は1800余りの兵で2~4万程度の西軍の攻撃を持ちこたえていたがそれにも限界が来たため自刃
【東】8月2日 家康は次男である結城秀康を上杉の抑えとして残し江戸へ
【東】8月4日 福島正則、井伊直政などに先鋒を任せ、家康は翌5日に江戸に到着する。
このころ西軍は尾張清州を拠点とする福島正則を味方に引き込もうと画策し、それに成功したら浜松で東軍と激突を、それに失敗したら清須を攻撃する作戦を練りつつ、伊勢美濃の平定を行っていた。
東軍は先鋒部隊が東海道を進み、福島正則の自領に向かうなど段々と東西軍の決戦に向けて東海地方周辺に兵が集まりつつあった。
まとめ
関ケ原の戦いが起こった経緯
・秀吉の晩年の政策の矛盾
・豊臣家内部での対立の表面化
・豊臣内部での後見人問題と後見人争いによる対立の激化
・家康と奉行衆の対立
・秀吉の独裁政権から合議体制への移行が上手く行かなかった。
・福島正則
・黒田長政
・吉川広家
【次回.関ケ原の前哨戦→関ヶ原本線→戦後処理を書いていきます】
あとがき
読んでいただき有難うございました。
何度も書いては消し手を繰り返し分かりやすく書こうと努力しましたが入れなければいけない自称が多く凄く説明臭くなってしまったと思われます、これ以上書いていくと分量的にも長いと感じたので2回に分けさせていただきました。
少しでも関ケ原の戦いの理解の助けになってればと思います。
これを読んで関ヶ原の戦いについて少しでも興味を持っていただけると嬉しいです。
質問ご意見などがあればここのコメントかTwitterにいただけると有難いです。
参考文献
小和田哲夫
「関ヶ原」を読む 武将の手紙
関ヶ原前夜西軍大名たちの戦い
三成準治
本多隆成
城びと