S17 最高2013 最終196× 下剋上マンマンガルド構築
【初めに】
どうも高虎です
S17潜っていた方はお疲れさまでした
このシーズンはポケモン剣盾が発売される前の最後のシーズンであり、剣盾ではレートが廃止されるという事前情報が発表されており僕にとっては最後の20に載せられる機会だと思い(18があったけど)必死になって20を目指した結果、なんとレート2000に行くことが出来ました。
正直今更構築記事を書いてもあれですが(僕の使ってた構築の半分以上がガラル地方に行けなかったし)ただ20達成した記録を残しておくためにも構築記事を書かせていただきます。
拙い文章であり、謎理論なども多々あるかもしれませんがどうぞ最後まで見ていっていただけると有難いです。
【構築経緯】
を使うことは最初から決めており
+で結果を残した構築があることを知り
の4匹は確定というのは最初から決めていた。
s16期は残り2枠にを裏に置いていた。対戦オフなどでは初めて本戦に出場できるなど多少結果が出たもののレートでは惨敗を重ね17を維持するのがやっとなほどであった。
僕がへの理解が足りないせいかを全然選出することが出来ずあたりにやりたいことをやられ、pt単位で此奴らに弱かったために解散。
そのためS17はを入れて臨んだところ早々に19チャレまで行けるなど序盤元気をしたもののそこから17~18帯で停滞。
以外に炎技を使えるを入れたものの親の仇のようにステロを撒かれまで被害を被りにやりたい放題やられる始末。
戦いを重ねるうちに鋼タイプが重いのではなくが重いということが分かり
を外し催眠を防ぎつつpt単位で重かったに強く出れるを採用した。
【pt紹介】
メガボーマンダ@メガストーン
無邪気 威嚇
努力値 A 156 C100 S 252
技 すてみタックル じしん 大文字 流星群
言わずと知れた最強のポケモン。地面比較的通りがいい地面技を切れたり両刀にしたことで鬼火や威嚇で機能停止することはなく、受けだしてくるにも有利に戦えて良かった。大文字は例外を除きを倒せる技であり此奴らが見えたら相当通りが悪くない限りは選出していた。
敵はこのポケモンが出てくることを前提に選出を決めている感じがあったので見せポケとしてが一番機能したと思う?(諸説あり) 選出率3~4位
マンムー@気合の襷
意地っ張り 熱い脂肪
努力値 A 252 S 252 B4
この構築の要であり、縁の下の力持ち
毒毒は受けだしてくるやPT単位できついに刺していくために採用した。正直岩技も欲しかったけど、毒があって拾えた戦いも多々あったので間違ってはないと思う?
此奴に関しては耐久があったりなかったりで地震ではを沈められなかったり、岩技をきっていることによりの対面も有利とも言えず威嚇を入れられた状態でのつらら2発でを落とせず変にHPが残ってしまい拓が発生したり、その他いろいろありシーズン終盤まで此奴の強さを疑っていた。(頼むからつららばり5発当てなくていいから平均3発当ててください)
ただに相当強く、削ってさえしまえばの並びも此奴一人で壊滅させることが出来るなど非常に選出率は高かった。
襷の行動保障+礫+裏のポケモンたちの先制技は非常に強力であった、相手にどれだけ襷を潰させないように立ち回るかがポイント。
一応他にも処理ルートがあるモノのがないと基本に勝てないのでを見たときは死ぬ気で襷を守りましょう! 選出率1位
努力値 H252 A4 B236 C12 D4
技 シャドーボール キングシールド かげうち せいなる剣
言わずと知れたギルガルド。とにかく固くよりもストッパーとして活躍してくれたと思う。択ゲーの申し子、余り欲張らずに安定行動をして行けばある程度は仕事してくれる、対戦数を重ねれば重ねるほど相手の傾向がつかめるようになってきて択も上手くなる、との択は諸説ありすぎて最後まで分からなかった。
此奴に関してはの耐久への理解度が上がれば上がるほど敵を止めても行けたし、刺しても行けた。
基本当たりはで毒を入れで粘るようにした。選出率2位
ポリゴンZ
ポリゴンZ@ノーマルZ
臆病 適応力
努力値 C252 S252 H4
技 破壊光線 騒ぐ 悪巧み シャドーボール
この構築のエース 最強のポケモン ボスゴドラに次ぐ第2の相棒 浪漫の塊
「お前が、どれだけ軽い銃を使おうが、そんな事は知ったこっちゃね~が。俺に言わせりゃ~ロマンに欠けるな」を体現したポケモン
悪巧み+破壊光線zの火力は凄まじくらも受けだすことは出来ない。
or やdに厚めに振られた以外なら基本対面からでも倒せる。
並みの耐久はあるので生半可な攻撃なら1発耐えて切り返しのノーマルzで倒せる。
最速にしたことによりなどの準則100族までなら抜けるが正直言って
はギャンブルだった。型が分かってない限り裏に置くなどしてリザの処理ルートは作っておかないとptが半壊してしまうので注意。
ゴーストタイプで簡単に止められてしまう、シャドーボールがあるモノの大した火力は出ず、このポケモンよりSが高いには圧倒的に不利なので注意。
世に出回ってる耐久裂き、Sに甘めに振って低速の受崩しにしているポリzより対応範囲が広がったが身代わりを切っていることによりには申し訳程度のダメージしか出ないシャドボしか打てず、身代わりで様子見するということが出来ず1回勝負しか出来ない。
仕留めたい敵はちゃんと1発で仕留め切ろう!!! 選出率3~4位
意地っ張り 力持ち
努力値 h220 a252 b12 d20 s4
haベースdl対策
じゃれつくさえ当ててくれれば対面性能の鬼、とつげきチョッキにすることにより対面からならに勝てる可能性が上がった。
PT単位で重いに強く出れることが出来る。いまやレヒレやボルトも叩き落とすを持ってる時代であり、マリルリの叩き落とすは非常に強力であった。
に叩きを打って処理ということが出来るようになった。
に強いってのは諸説には何もできない。
選出率5位
カプ・コケコ
カプ・コケコ@デンキz
臆病 エレキメーカー
努力値 c252 s252 d4
技 10万ボルト めざ氷 草結び 瞑想
を殺すために採用されたポケモン、この枠は最後まで迷った。エレキフィールドを撒けることによって催眠に相当強くなった。
にもある程度強く出られるようになったのもよかった。圧倒的に高い素早さから行動できるというのは削りが重要になってくるこのPTでは非常に役に立った。
瞑想にすることによりを倒すことが出来るかも……。かも
選出率6位
【重いポケモン】
此奴どうするの? がいてもキツイし重い。此奴の受け方を教えてくれってくらい重かった。
PTが削れてしまうと此奴で全部持ってかれる。で止められないことはない……。ことはない……。
PT単位で戦っていかないと勝てない、2体で見るように心がける。
素直にきついで如何にか出来たら非常に楽
倒す手段はあるモノの気を抜くとPTを半壊されかねない
舞われてしまうとがいないと死
先制技マシマシパなのでサイコフィールドがきつい、で上手く対処できないと1.5体持ってかれる
【基本選出】
or
vs
は確定が通せそうなら、安牌を取るならor
vs
が多かった気がする。が通せそうならn回目、リザを処理できる自信があるなら
sv
確定 きつい、まじでこの構築はきつい。が通るようにできれば何とか勝てる。この構築はに殺意マシマシなんでは出さないほうがいい(きがする)。対面はノータイムで捨て身タックル
vs
で2体を持っていけたらあど、裏はで撃ち漏らしをカバーし余裕があるときは催眠ケアも込めてを出してた
vs
ほぼ確実に初手にが来るのででを倒せたら勝てる、ただ裏にがいるのでご利用は計画的に。or
vs
かかかによって話が変わってくる。
はで破壊できるからかなり有利に試合運びを進められる。
がいるとほぼほぼが通らないので選出しない。の襷を盾にクチートを倒せるような立ち回りを心掛ける。
vs
ほぼ確実に初手にが来るので積極的にを合わせ、を倒すために出てくるへの交換を読んでを出していきたい。1体でもptのポケモンを破壊できるとかなり有利な試合運びが出来た気がする。はで倒すことが出来ないと怯む怯まないのゲームになるので注意。交換読みや強気な立ち回りが求められる
VS
相手のへの知識量次第。を通せれば勝てる、は+4ノーマルzで死。案外が曲者
VS
or 初手は確定。どれだけで荒せるかが勝負のカギ
【おわりに】
自分が高虎という配信者を初めて最初に目標にしたのがボスゴドラでのレート20でしたがついぞ叶いませんでした。ただ自分がボスゴドラを使っているときに出会うことが出来た、臆病最速破壊光線zポリゴンzでusumで20ってのは達成することが出来て良かったです。
usum最後のシーズン1000戦以上戦って結果を残すことが出来ず諦めかけたこともありましたが、本当になんとか、偶然かもしれませんが20に乗せられ安堵しています。剣盾ではボスゴドラもポリゴンzもいませんがいつか、いつかきっと、ポリゴンzやボスゴドラと共に大きな結果を残したいと思っております。
またポリゴンzと戦える時を楽しみに
【オマケ】
20達成したときの配信の切り取り
高虎のCH
高虎のTwitter
関ケ原の戦い解説(中)
この記事を見ていただき有難うございます。
どうも高虎と申すものです。
この記事は前の関ケ原の戦い解説の続きとなっております、前の記事を見ていない方は是非読んでみてください。
注意書きと謝罪 今回で終わらせるつもりでしたが色々と筆が乗ってしまった結果、関ケ原の戦いの前哨戦だけで相当長く書いてしまいました、これ以上書くと描き手も読み手もダレると思ったので分割させていただきます。
1.関ケ原の戦いの前哨戦
西軍東軍共に続々と軍が東海地方に集結しつつあった。
【東】8月5日 徳川家康が江戸に入る。そこから東西両軍が東海地方を巡って抗争を拡大させていく中家康は翌9月1日まで江戸を動くことは無く情勢を静観していた。
一説には福島正則などの豊臣恩顧の武将の忠誠を試すため動かなかったとされている。
【西】 8月8日 吉川正家、安国寺恵瓊、長束正家が伊勢平定の為伏見から伊勢方面へ出陣。
伊勢方面は小大名が割拠する地でありまた三成の佐和山城や京都にも近く、東軍に付いた諸将も大勢存在するために西軍としては伊勢を落とさねばならない重要な地であった。
【東】8月8日 越前を進行中の前田利長が大谷吉継が本領金沢を強襲するとの情報を得たために金沢に向かい軍を引き返す。
【西】 8月9日三成が垂井(関ヶ原へ) この時点で西軍は木曽川を挟んで東軍との決戦を想定していた。
【東】 8月9日 金沢に撤退中の前田軍に、小松城の丹羽長重に奇襲攻撃を受け浅井畷の戦いが起こる。
前田軍は加賀南部に攻め入る際に小松城に最低限の兵士しか配置せずに半ば無視し、大聖寺城し侵攻した。そのため小松城に十分な兵力が残っており、前田家の撤退を狙われた。この戦いで丹羽長重は敗北若しくは引き分けに終わったものの前田勢は大きな痛手を負って金沢に撤退することになる。
【東】8月14日 東軍先鋒部隊が福島正則の居城清須城に入る。家康の出馬を待ちつつ、兵の集結を計る。
【東】8月19日、黒田長政、福島正則らは家康の出馬なしに軍事行動に出ると井伊直正を通して報告。東軍としては美濃方面に出るためにも木曽川を渡る必要があり、渡川先の地域を支配している織田信秀の籠る岐阜城を落とす必要があった。
そのために東軍先鋒部隊は池田・浅野勢1万8千と福島・黒田・井伊1万6千の2つに部隊を分けて、河田(こうだ)の渡と下流(おこし)の渡から渡河することを決めた。
8月21日 福島、黒田隊が木曽川の渡河を試みるが、西軍の軍勢に阻まれ断念()その夜下流の加賀野井(現一宮市)から船で渡河。
8月22日、東軍の渡川を察知した西軍は竹ヶ鼻城に退却、同日福島勢による攻撃が開始された、両軍熾烈な戦いを繰り広げるも、竹ヶ鼻城に福島正則と旧知の将が守っており開城交渉の末本丸以外は降伏をした。本丸の杉浦勝重も最後まで戦ったものの自刃し竹ヶ鼻城は開城した。
同日 明け方池田、浅野幸長(五奉行浅野長政の長男)、山内一豊勢が木曽川の渡河を開始、西軍織田信秀勢に鉄砲を撃ちかけられる。(河田木曽川渡河の戦い)
同日昼、中州部分に到達した池田隊はそこで陣を張り(現岐阜県各務原市)、対岸の米野まで進出し、そこで両軍は激突することになる(米野の戦い)
この戦いが行われていた頃西軍は毛利勢が伊勢に、大谷勢は前田家との戦いのために越前に、そして細川幽斎は以前田辺城に籠っており1万5千の部隊は丹後に釘付けになっており、石田三成は本軍を送ることがままならず。織田信秀も二方向からの進軍の為兵を広域的に展開したために数で勝る東軍に押されることとなり、西軍は木曽川の渡河を許すこととなってしまった。
8月23日 木曽川の渡川に成功した両部隊は合流し、織田信秀の籠る岐阜城に攻撃を開始。城主の信秀は西軍の拠点である犬山城や大垣城に救援を求めたが……。
岐阜城は1日で陥落してしまった。← 織田信秀は降伏し下山した後に剃毛し高野山に入った。
また犬山城は東軍に内応していた。
この時大垣城から石田勢が救援部隊に駆け付けようとするも途中で黒田・藤堂勢に攻撃に遭い撤退、黒田・藤堂勢は一時赤坂・垂井(関ヶ原)方面まで進出することとなる。
三成「お願い、落ちないで岐阜城!あんたが今ここで倒れたら、木曽川を中心とした東西決戦約束はどうなっちゃうの? 岐阜城はまだ残ってる。ここを耐えれば、東軍に勝てるんだから!」
次回、「岐阜城落城」。デュエルスタンバイ!
西軍は岐阜城が1日で落ちることは想定しておらず、木曽川を中心とした東西両軍の決戦の考えがここに破綻してしまい、西軍は大きく軍略を見直さなければならないこととなった。また東軍は岐阜城を落としたことにより木曽川を無傷で渡れることとなり、また美濃に勢力圏を築けることとなった。
西軍の伊勢平定
【西】8月23日 毛利・鍋島・長宗我部勢は伊勢にある安濃津城に攻撃を開始(安濃津城の戦い)
東軍に味方した富田信高・分部光嘉(わけべ)などの伊勢の大名たちのは家康の会津征伐に付き従っており、小山の地で家康に味方することを表明した。家の大名たちは評定後急遽伊勢へと帰還した。伊勢湾の横断中に西軍に与した海賊大名と名高い九鬼嘉隆の船団に補足されるも、伊勢国へ上陸し、各々らの城に帰還し西軍を待った。
しかし西軍の軍勢が余りにも大勢であったために、分部光嘉は寡兵では西軍を食い止められないと判断し、伊賀上野城を放棄し安濃津城に入り、また伊勢の東軍方の諸将も安濃津城に兵を送るなどして安濃津城に兵が集結、伊勢一番の東西決戦の兆しが高まっていた。富田氏は家康に安濃津城決戦の事を伝え西上を速めてもらうことを要請しようとしたが伊勢の海上は九鬼氏によって封鎖されており、伊勢の諸将は独力で西軍と対抗しなければいけない状態であった。
一方西軍は当初の木曽川決戦時に持ち込むために、東軍の伊勢方面への侵攻を未然に防ぎ、また両軍が木曽川を挟み対陣したときに、伊勢方面から尾張方面へ奇襲攻撃を仕掛けるためにも伊勢の平定はとても重要なことであった。
8月24日 安濃津城の戦い 前日の小競り合い的な戦いとは打って変わりこの日に激戦が繰り広げられる。分部光嘉の毛利勢との一騎打ちや富田信高の妻が武装して戦いなどの逸話があるの守り側は劣勢であった。
翌25日 毛利氏の勧告により安濃津城兵は開城を決意しここに戦いは終わった。西軍は伊勢の一大勢力の打倒に成功したがまだ各地に抵抗勢力が残っていた、ただその勢力の駆逐も時間の問題となっていた。
この戦いで家康方と内通しているはずの吉川広家が奮戦したりするなど、一時広家と家康の仲介役である黒田長政が顔色を変えたという、またこの戦いに参戦していた鍋島直茂の子である勝茂は父の命により戦線離脱することとなる(鍋島家は西軍に味方したものの東軍の勝利を確実視し、本線の前に戦線離脱し自領の九州に帰還し九州では東軍に味方し西軍と戦うため領地は安堵される)
【東】8月24日(1日時間が戻ります) 徳川秀忠が宇都宮から東山道へ進軍を開始する。
【東】8月27日 岐阜城陥落の知らせを受けた家康は東軍諸将に軍事行動を控えることを指示し、またこの日までに大垣城に石田・小西・島津勢は入城していた。
同日、池田隊によって関ヶ原を焼き払い赤坂・青野原に着磁ん
【東】9月1日に江戸を出陣。同日、福島・藤堂・黒田・田中隊が赤坂、垂井に着陣
【西】9月2日越前の大谷吉継が戸田、赤座、小川、朽木、脇坂隊と共に美濃関ヶ原に。
第二次上田合戦
【東】 9月2日 徳川秀忠は信濃小諸城(こもろじょう)に入り、上田城の真田昌幸に降伏勧告を行う。翌日、昌幸はこれを承諾。しかし、翌日には態度を一変東軍へ宣戦布告。
【西】 9月5日 砥石城を守る真田信繁(幸村)は兄真田信幸に城を明け渡し、上田城に退去。
翌、6日に東軍は上田周辺で穂刈を行いそれを阻止しようとした真田勢と戦い、真田勢は敗走を装い上田城に誘い込み、城内の伏兵や神川を決壊させるなどの戦略で徳川勢を食い止めたとされている。
9月9日 秀忠は上田城の包囲を解き小諸城に退却、翌日上田城攻撃を中止し美濃へ進軍。
第二次上田合戦の戦に関しては不明な点が多くどのような度合いの合戦が行われたかは分かっておらず真田勢の秀忠を手玉に取るような合戦の内容は後世の創作とも言われている? しかし真田昌幸は7日間も徳川勢を信州上田の地に留めたことは史実であり、それにより徳川秀忠隊3万8千は関ケ原の戦い本戦に間に合わず遅参した。
また親子分かれて戦った真田氏だが砥石城を明け渡したことにより、親子で刃を交えることなく、また砥石城を接収した真田信幸はその功績によりお家を存続させている。
【東】9月3日(また時間が戻ります) 犬山城が開城し、犬山城に籠っていた殆どの諸将は東軍に付く。またその中には関ヶ原周辺を領地としてた竹中重門もいた。
大津城の戦い
【東】9月3日 大谷軍の殿であった京極高次は居城である大津城に帰還。深夜、突如3千の兵と共に東軍方として籠城を開始。
大津は越前、美濃、伊勢を繋ぐ要所であり、西軍本体のちょうど後方に位置する場所であり西軍側は後ろを突かれないためにも即急にこの寝返りに対処する必要があった。
【西】9月7日 西軍1万5千の軍勢が大津城を包囲し、攻撃を開始するも思うように攻めることが出来ず苦戦。大津城は15日に降伏し開城することととなる。
大津城の戦いは東西軍の決戦の機運が高まってきている、すわその時に起こり西軍はその対応に追われた。そして大津城が開城した15日は関ケ原の戦い当日であり、結果は敗北であったものの京極高次は西軍1万5千人を大津に留め、関ケ原本戦に参加させなかったという功を認められ、京極高次は後に若狭1国の主となっている。
【西】9月7日 伊勢方面を攻めていた、毛利勢が関ヶ原の南宮山に布陣。
【東】9月11日、徳川家康が清須城に到着。
<移動経路>9/1江戸~神奈川、9/2藤沢、9/3小田原、9/4三島、9/5清見寺、9/6島田、9/7中泉、9/8白須賀、9/9岡崎、9/10熱田、9/11清須
家康は江戸~清須まで東海道 約370kmを11日間で移動した
家康は諸将の暴走を懸念してかかなり速い速度で進軍を行っている。
【西】9月12日 和歌の達人であった細川幽斎を惜しんでか、勅命により田辺城の講和が成立し、幽斎は城を開城。
西軍1万5千は2日後の本戦に間に合わなかった。
【東】 家康本隊が岐阜城に入り、14日の夜明けに赤坂に向かう。
【西】9月14日 家康が赤坂に軍を率い参陣したことにより千群は一時動揺、西軍の士気を回復するために島左近は東軍に奇襲をかけることとした。
島左近は伏兵を忍ばせ東軍の中村隊を挑発しそれに乗った中村隊と中村隊の助太刀に来た有馬隊を撤退するとと見せかけつり出し、伏兵によって両部隊を撹乱し壊滅させ敗走に追い込んだ。
こうして関ヶ原の戦い前日の杭瀬川の戦いは西軍の勝利となり西軍は大きく士気を上げた。
【西】同日、小早川秀秋8千は松尾山城に布陣した伊勢盛正(大垣城城主)を追い出し、布陣。
大谷吉継は小早川秀秋の離反を恐れ小早川秀秋の近くに布陣し、脇坂ら諸将を備えとして配置した。
【西】同日夜、石田・島津・小西・宇喜多隊が大垣城から関ケ原方面へ移動。
【東】西軍の移動の知らせを受けると東軍もそれに従い関ヶ原へ到着。福島正則、黒田長政らを先頭に陣を構える。
1600年9月15日 深い深い霧に包まれた関ヶ原で東西両軍は集結し相まみえることとなる。
この日、日本史史上類を見ない大戦、関ケ原の戦いが起こることとなる。
あとがき
読んでいただき有難うございました。
今回は時系列を中心に関ケ原の戦い前までの両軍の状況を書かせていただきました、2回で終わらせると言って3回になってしまい申し訳ないです。
次回は関ヶ原本戦について書いていきますのでどうか楽しみにして待っていていただけると有難いです。
参考文献
関ヶ原から大坂の陣
小和田哲夫
「関ヶ原」を読む 武将の手紙
関ヶ原前夜西軍大名たちの戦い
三成準治
徳川家康と関ケ原の戦い
本多隆成
城びと
戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ
関ケ原の戦い解説(上)
この記事を見ていただき有難うございます。
どうも高虎と申すものです。
突然ですが皆さん関ケ原の戦いが起こった日ってご存知ですか?
慶長5年(1600)9月15日(旧暦)です。今と昔は使っている暦が違うので現代の曜日感覚に当てはめるならその1か月以上後の10月21日です。
まぁそんな感じで、旧暦ですが関ケ原の戦いが起こった日にちが近いので関ケ原の戦いについて東軍西軍両立場からの視点を踏まえながら今回はなぜ天下分け目の戦いが起こるに至ったのかを解説していきます。
多分2回くらいに分けられて投稿されます。
※注意書き 通説をもとに関ヶ原について書いていきます。諸説あり、事象はあったりなかったり、後世の創作だったり。
関ケ原の戦いの経緯
1.秀吉の死
まず最初に関ケ原の戦いで良く勘違いされがちなのですが、関ケ原の戦いは豊臣家に代わり徳川家が天下を取ろうとした末に起きた豊臣家VS徳川家のような構図からくる戦いではなく、あくまでこの時点では豊臣家ナンバー2を決める戦いです。(結果的にはこの戦いにより決定権などは徳川に移っていきますが)
関ケ原の戦いについてどこから話を進めていくか本当に悩みましたが、【天下人豊臣秀吉の死】、ここから話を始めていこうと思います。
真田丸の秀吉(晩年の秀吉描写が良くできていたと思う)
個人的には秀吉と言ったら竹中直人のイメージが強い
ちなみに近年の大河の秀吉トレンドは今までのような明るい秀吉ではなく闇の部分ににスポットが当たっていることが多い。
(関ケ原の戦いの2年前くらい)1598年、天下人である豊臣秀吉が死亡します。豊臣政権は今まで秀吉独裁の政権でしたが、子の秀頼はまだ6歳と若くとてもじゃ無いが豊臣家を運営できるような能力は備わっておりません。秀吉には秀吉に近しい親族は居らず(弟は病死、甥は粛正)、秀吉の出生ゆえに古来からの家臣もあまり多くはありません。そんな中秀吉は年若い息子を五人の有力な大名(五大老)と、有力な直臣(五奉行)の合議によって補佐していく体制を整えました。
秀吉「ということでワシが死んだらみんなで話し合って進めてね」
秀吉「家康君、ほんと秀頼のこと頼むね、君しか頼りになる人いないんだから」←
家康「承知」
↑晩年の秀吉
そんな中秀吉は死ぬ間際律義・実直で有名な徳川家康に秀頼を託し、このことから徳川家康は五大老の中でも特別な立ち位置となります。
【※重要】 今回の話は五大老と五奉行中心に話を進めていくので是非この10人は頭に入れておいてください。
五大老メンバー
・徳川家康(自家製味噌製造マシーン)関東が拠点
・前田利家(すごいほうの前田) 北陸が拠点
・毛利輝元(どっちつかず)中国地方が拠点
・上杉景勝(真面目) 東北地方が拠点
・宇喜多秀家(誰!?) 山陽の一部が拠点
五奉行メンバー
・石田三成(嫌われ者)行政担当
・増田長盛(頭おかしい人) 土木担当
・前田玄以(地味な方の前田)宗教担当
・長束正家(誰!?)財政担当
秀吉亡き後の豊臣政権の課題は朝鮮からの撤兵であり、諸将に秀吉の死を知られないよう、そして現地の人間の士気に関わらないようにと秀吉の死は隠されました。この撤兵時に石田三成含む五奉行と朝鮮に渡った加藤清正や福島正則などと関係が悪くなり豊臣政権内で不満が募ってきます。
石田三成は元々秀吉の家臣であり、諸将と秀吉を繋ぐパイプ役のようなものを担っており、秀吉の死後直後から家康による豊臣家乗っ取りを恐れ、家康の暗殺を試みたりしています。一方家康は有力諸将の家を訪問したり、秀吉の遺言である大名同士の婚姻の禁止を破り伊達政宗や福島正則などの有力な諸将と関係を結び、両者の対立は深まっていきます。
※ 青 東軍に付いた人 緑 徳川家康の譜代の家臣or親族(東軍) 赤 西軍に付いた人 紫 内応軍
家康の非常に広い人脈がうかがえる
ただそんな伏見での家康の独断に豊臣秀頼のいる大坂では前田利家を中心とした四大老及び五奉行は家康を糾弾、一時前田家と徳川家の邸宅に諸将が集まるなど一触即発の空気になるが不利を悟った家康は和解に至った。利家存命中は政治の核が伏見(家康)と大坂(利家)に分かれ豊臣政権は家康と利家のにらみ合いは起こったものの衝突には至らなかった。
しかしそんな中家康は後に東軍となる諸将と関係を構築していき、その裏で毛利輝元は浅野長政以外の四奉行と盟約を結ぶなど暗に関ケ原の対立関係が築かれつつあった。
2.利家の死
家康と利家の対立の翌年、利家が死去すると段々と豊臣政権の溝は深くなっていく……。
とはならず
七将「三成嫌いだから殺す」
利家の死の翌日(正確には利家が死んだ日の夜)← に豊臣家の七人の重臣によって石田三成邸が襲撃される事件が起きます。
三成はこの襲撃から逃げ延び、家康に助けを求め家康の仲介もあってかこの騒動は解決に至るものの、騒動の責任を取り石田三成は居城である佐和山城に蟄居、実質的に三成は失脚し五奉行は四奉行になり、騒動を収めた家康の豊臣内部での地位は向上し、家康は秀吉の伏見城を居城とせよとの命を破り秀頼のいる大坂城に入ることとなります。
利家亡き後前田家の後を継いだ前田利長が家康の勧めもあってか加賀に帰国、秀吉の死の直前に会津に移動となった上杉家も領地経営のために会津に出向かなければならないなどこの時点で五大老も三大老化していた。
家康が伏見から大坂城に移った翌日、五奉行の一人である浅野長政と豊臣家家臣大野長治、前田利長の従兄弟である者らによる家康襲撃計画が五奉行の増田長盛(※これから先の増田長盛の行動に注目してみよう)の密告により露呈、家康は関係者を処分した後にその首謀者を加賀の前田利長だと推定し、加賀征伐の準備を始める、これに驚いた利長は母を江戸に差し出すなどし家康に追従する形で和解に至っている。また今回の事件に関与したと家康に【疑われる】メンバーの殆どは江戸に人質を送っており、関ケ原の戦いで殆どの者は東軍に付くこととなる。
また事件に五奉行の一人である浅野長政も関わっていたことにより実質四奉行であった五奉行は三奉行化、現状三奉行、三大老化しており、秀吉の唱えた合議制の政権は崩れつつあった。
関係ないけど軍師官兵衛の家康が近年の大河家康の中で一番すこ
(最近の大河家康トレンドは老獪な家康ではなくコミカルな面が前面に出されていることが多い)
3.上杉征伐
上杉景勝は秀吉が死の直前に会津に移動となり、所領である佐渡島はそのままの支配が認められたものの越後は一部しか与えられず新天地の領地経営をしなければならない状態であった。会津の居城である鶴ヶ城は手狭と考え、新たなる城である神指城の築城を指示した(この城には軍事的な意味合いより経済効果を目的として築城しようとした)。上杉家は東北の伊達家、関東の徳川家の抑止として会津に移されており、徳川家や伊達家とは対立せざる負えない状況であった。
そこに上杉旧領である越後に入った堀氏に内政の妨害行為をしたと捉えられるなど堀氏とも関係が悪化し、堀氏も上杉家の行動に謀反の疑いありと家康に伝えられたりと周囲に敵を抱えていた。
また上杉家と徳川家の対立が濃厚になるとパイプ役であった重臣が徳川家の回し者として憚られた結果重臣が徳川家へ出奔するなどの事件が起こる。
家康は上杉家の城を築城するなどの行動から上杉家を豊臣家に敵対する者と定め、上杉征伐を行おうとしたが周囲からの反対があり、一度上杉家の言い分を聞くために当主である景勝の上洛を求めだがこれを景勝はこれを拒否。
五奉行の一員である長束正家と前田玄以が征伐の中止を嘆願するがそれを無視し、家康は豊臣家として諸将を集め上杉家討伐に向かうこととなる。
4.三成挙兵
1600年6月に徳川家康が征伐の為中央から離れ、大谷吉継も征伐に参加しようと居城の敦賀城(福井)を出立し軍を進める中、同中にの佐和山城(滋賀県)に寄ることになる。佐和山城で五奉行である石田三成と増田長盛←から打倒家康計画を伝えられ、当初は家康に接近しようと計っていた吉継だが三成との仲などもあり三成に協力、この会談で石田三成は大谷吉継の進言に従い西軍の総大将に就かず、五大老の中で家康に次ぐ実力者であった毛利輝元を総大将にしようと画策し、三成に接近している毛利家の将安国寺恵瓊に働きかけを行った。輝元は恵瓊の説得を快諾し、一族や家臣に相談などなく独断で総大将に就くこととなる。家康不在の大坂には三奉行の依頼もあり毛利輝元が入った。
安国寺恵瓊「三成方の総大将になるのです」
毛利輝元「うん分かった」
吉川広家「いやいや、この戦い絶対家康が勝つから、まじで、このまま行ったら毛利潰れるから」
毛利輝元「マジで?」
吉川広家「私が裏で家康方と通じて事情説明しておくので毛利はどうか積極的に西軍として動かないように」
総大将であるにも関わらず毛利家は積極的に親三成派として行動した安国寺恵瓊と積極的に東軍に内応し毛利家の身の安全を計ろうとした親家康派である吉川広家、そして関ヶ原で東西両軍が戦いのキーマンとして取り合うことになる小早川秀秋を抱えており家中が真っ二つに割れていた。
このことで毛利家は西軍として積極的な行動を行わなくなり、輝元は大坂城に入ってから一歩も動くことは無かった。
一方徳川家康は上杉征伐の途中に東海道に城を構える武将たちを訪ねて回るなどの事を行いつつも江戸に到着し諸将たちに上杉攻めの指示を出したりしている。
【西】7月17日 豊臣三奉公は徳川家康を糾弾する手紙を全国に送付、それと同じく大坂にいる大名の妻子たちを人質として利用しようとするも、妻子達を取り逃したり自刃させたりするなど失敗が相次いだ
【西】7月19日 西軍は徳川家康の家臣である鳥居本忠が留守居を務めている伏見城を攻撃、敵対した丹後の細川幽斎の籠る田辺城にも攻撃を開始した。
西軍は主だった兵力が集結する中、伏見、田辺両城の城攻めに苦戦するなどと思うように城攻めが進まなかった。
【東】徳川家康は西軍挙兵の情報を奉行衆である増田長盛から伝えられていたが←情報が不確定なため7月21日には会津攻めのために江戸を出陣した。
7月24日 西軍挙兵の情報を確かなものし、下野国小山の地で上杉征伐を中止、翌日に従軍していた諸将と軍議を開いた。
またこの時点以前に信州の武将である真田昌幸・信繁(幸村)親子が長男信幸を遺し征伐軍からから離反するなど一部の諸将は西軍挙兵の情報を事前に得ていたとされている。
家康「なんか西軍が挙兵したらしい、向こうが秀頼様持ってるから儂ら豊臣軍から私軍になっちゃったわ、西軍に味方したいなら止めないで西軍に付くのは正統や、好きにいってええで」
福島正則「三成嫌いだから家康側に付きます」
豊臣恩顧の大名「私たちも家康に味方します」
福島正則「よっしゃ、ワイの発言でみんな東軍に付くって言ったで、これは東軍の中でも優位な立場になれるで」
山内一豊「私の領地差し出します、西軍討つためには東海道通るんやろ必要やろ?」
東海道の城主達「私たちも差し出します」
小山での評定(軍議)では徳川家康は洗いざらい現在分かっている情報を諸将に伝え、また西軍に人質や恩義などがあり西軍に味方したいものは好きに味方をしてもいいと発言、軍議の中で豊臣恩顧の武将の筆頭格である福島正則が家康方に付くことを表明するとその場の殆どの諸将も家康方に味方することを表明、このことにより福島正則が功労者になりかけたものの、山内一豊が領地を差し出すとの表明、それに続き東海道に領地を持つ武将たちは相次いで家康に領地を提供、これにより徳川家康率いる東軍は東海道に敵対者を出さず無傷で西軍領へと侵攻できることとなった。
【西】8月1日 伏見城落城 鳥居本忠は1800余りの兵で2~4万程度の西軍の攻撃を持ちこたえていたがそれにも限界が来たため自刃
【東】8月2日 家康は次男である結城秀康を上杉の抑えとして残し江戸へ
【東】8月4日 福島正則、井伊直政などに先鋒を任せ、家康は翌5日に江戸に到着する。
このころ西軍は尾張清州を拠点とする福島正則を味方に引き込もうと画策し、それに成功したら浜松で東軍と激突を、それに失敗したら清須を攻撃する作戦を練りつつ、伊勢美濃の平定を行っていた。
東軍は先鋒部隊が東海道を進み、福島正則の自領に向かうなど段々と東西軍の決戦に向けて東海地方周辺に兵が集まりつつあった。
まとめ
関ケ原の戦いが起こった経緯
・秀吉の晩年の政策の矛盾
・豊臣家内部での対立の表面化
・豊臣内部での後見人問題と後見人争いによる対立の激化
・家康と奉行衆の対立
・秀吉の独裁政権から合議体制への移行が上手く行かなかった。
・福島正則
・黒田長政
・吉川広家
【次回.関ケ原の前哨戦→関ヶ原本線→戦後処理を書いていきます】
あとがき
読んでいただき有難うございました。
何度も書いては消し手を繰り返し分かりやすく書こうと努力しましたが入れなければいけない自称が多く凄く説明臭くなってしまったと思われます、これ以上書いていくと分量的にも長いと感じたので2回に分けさせていただきました。
少しでも関ケ原の戦いの理解の助けになってればと思います。
これを読んで関ヶ原の戦いについて少しでも興味を持っていただけると嬉しいです。
質問ご意見などがあればここのコメントかTwitterにいただけると有難いです。
参考文献
小和田哲夫
「関ヶ原」を読む 武将の手紙
関ヶ原前夜西軍大名たちの戦い
三成準治
本多隆成
城びと
【ポケモンUSUM】 第一回・沼ラッシュ(参加者は必読お願いします)
第1回沼ラッシュ
日時
6月28日 金曜日 21時~24時まで
大会URL
大会ルール
・レート準拠
道具 Zクリスタル メガストーン あり。
持ち時間 5分
レートに参加できるポケモンなら特に制限はありません
2ROM以上の参加もOKです。
配信などは自由にして頂いて構いません。
全15戦
※ここから重要
・参加資格はS15のシングルレートに潜っており、S15シングルバトルでの最高レートが20を超えられなかった人です。
・S15以外でレート20を達成した人や、シングルバトル以外でのレートで20超えた人には参加できます。
・複数ROM所持者は持っているROMのどれか一つでも20達成した方は参加はご遠慮ください。
・良心に沿って大会を行います、荒しや違反行為などが無いようにしてください。
【景品】
・準伝説(伝説)の厳選代行(めざパ指定可)
・色厳選代行(特性指定は可 めざパ出来る限り頑張ります)
・ポイマ10個
1位の人から3位の人までこの中から順番に選んで貰います。
4位 タテやんさん提供臆病めざ炎レヒレ
5位 ティアさん提供無邪気色ゲッコウガ(100レべ)
6位フレディさん提供色ギラティナ(100レべ)
10位育成済みヌオー
14位 サカキさん提供 色メガヤンマ(100レべ)
15位NANANAさん提供プレシャス色べベノム
20位育成済みヌマクロー
キリ番賞(50位まで) ますちるさん提供 ポイマ2個
(キリ番の方は@chilupoke_197 ますちるさんと直接やり取りでの交換になります)
追加などがあれば記載していきます。
【紹介】
主催者のチャンネルです、仲間大会の配信は9時頃から始めます。
チャンネル登録やお気軽にコメントお願いします!
↑主催者のTwitter疑問などがあればDM下さい
【紹介その2】
参加してくれる配信者の方々
フライさん
フライゴンとクチート使いの方、前期は最終盤に主催者と18帯で血反吐を履くような戦いを繰り広げました当日は配信してくれるかは不明
光秀さん
ポケモンやゼルダの伝説などの動画を上げている方、水色桔梗紋をチャンネルの顔として使ってる以上負けられない!! 当日は配信してくれるようです
ジンジャーさん
色々な動画を上げてる配信者の方、毎週水金に配信しているらしい?
動画を見に行った際に勝てる(偏向報道)と言ってていたのでポケモンレートはそんな甘くないんや!!と言ってみたい(言ってみたいだけ) 優しさだけやないんやで
ポケモン復帰勢の方らしい
配信される方などがおりましたら、お声かけ下さい。
ここに追加していきます。
SPECIALTHANKS
ますちるさん
こんかいポイマを提供してくれた普段から良くして貰っているレート2000越え常連の配信者の方
面白く為になる配信をしているので是非配信などにも顔を出して見て下さい!
www.youtube.com
なぜ日本に戦国時代が訪れたのか!?
どうも高虎と申すものです。
前回と同じく戦国時代について出来るだけ分かりやすく説明して行きたいと思います!
※注意書き 今回の記事の内容は人によって捉え方が異なってくるのでこの記事が正しいという話ではないです。興味を持った方は自分で調べて判断してみてください。
歴史は調べれば調べるほど味が出てくるスルメみたいなものです!
今回は戦国時代の根本に迫る、何故日本に血で血を洗うような戦乱の時代である戦国時代が訪れることとなったのか? 戦国時代の始まりについて書いていきたいと思います。
1 武士社会の矛盾
戦国時代の話を始める前に……。
そもそも武士って元はどんなだか知ってますか?
実は武士というのは元々は農民なのです!
農民の生活基盤に必要不可欠なものはなんだか分かりますよね?
そうです、土地です。
ですので、武士というものは根源的に土地に人一倍の執着があり、土地のためなら命を賭しても構わない存在であり、それゆえに一所懸命などという言葉が生まれたりなどしたのです。
もちろん都などには貴族のボディーガードなどをしていた職業(クラス)武士もいたのですが、それらは平家の滅亡、承久の乱(後鳥羽上皇による反乱)、などに敗戦した結果、元が貴族であるという西国の武士の概念は衰退し、上記の起源は農民であるという東国(源氏)の武者の概念に取り込まれて行きました。
この農民上がりの武士は無法者や朝廷権力から実力で土地を守るために武装した集団であり、争いばかりの彼らが望んでいたものは自分の土地の所有権を証明してくれる力のある誰かだったのです。
そしてそれが鎌倉幕府であり、頼朝自身も中央(当時は平家が勢いを持っていた)から独立した権力機構を作るためには東国の武士の力が必要であり、彼らが求めている土地の支配権を証明する存在となることで味方を増やし、土地の所有権を認められた彼らはその見返りとして今までは防衛に使ってきた軍事力を鎌倉に貸したのです。
この関係があの有名な御恩と奉公の関係です。
とまぁ御恩と奉公には戦う敵と与える領地があるということが大前提で結ばれています。
そのために幕府(北条家)は鎌倉で聖杯戦争()を定期的に開催して、戦う敵(幕府成立時からの重臣、功労者なためいっぱい土地持ってるよ)を意図的に作り出しては殺し、その敵(将軍家も殺されます)から奪った領地を自領にしたり、恩賞を分け与えたりと必死になってこの契約関係を守ろうとしていたのです。
ちょっとだけ話は変わりますが、鎌倉時代の相続方法ってご存知ですか?
鎌倉時代の相続方法は分割相続が主流でした。そしてなんと鎌倉時代は男性だけではなくて女性にも財産相続の権利があったのです!
さて話を戻しますと、この御恩と奉公の関係は戦う敵と恩賞として与える領地があるということが大前提で結ばれています。
今までは身内を殺し、これを守ってきていたのですがそこにイレギュラーな敵が現れます。そうです、もうこ(⌒,_ゝ⌒)です。
元軍、蒙古(モンゴル帝国)が日本に攻めてきます!
皆様ご存知の通りこの戦いは武士の活躍によって元軍は撃退されます。そうです、この戦いは武者の活躍によって勝利します。
そうです……。
この戦いに勝利した北条家は思いました
「あれ? どうやって褒美を与えたらいいんだ?」
今回の戦いは防衛戦であり、領地が取れる戦いではありません ←
そして、皆さん元寇が起こったあたりの年代にすこしスポットを当ててみてください。
鎌倉幕府成立年(頼朝が東国支配権を樹立した年)1180年
なぜ鎌倉幕府の設立年を挙げたかというと、すこし前の話を思いだして見てください。
このころの武士の相続方法は分割相続なのです、そして元寇の頃には100年が経過しております。
幕府成立時から子供の子供、孫やそれ以上の代を刻んでいてもおかしくはない月日は流れています。土地は半分の半分の半分、兄弟などがいたらもっと狭き土地になっている頃です。
はい、もうこの相続方法ではやっていけない破綻寸前の状態でモンゴル軍が日本に来たのです。
そりゃぁ、みんな多少は無理をしてでも戦いに行って功績を挙げに行きます。
幕府「いや、今回与えられる恩賞なんてねぇから」
御家人は衰退しました()
分割相続も衰退しました()
悪党は誕生しました()
分割相続に無理があることに気が付いた人々は分割相続を辞め、嫡子一人が相続をして行くスタイルに移行していきます。
が……。
今までは相続権があったのに急にそれがなくなった人々はそれを受け入れるでしょうか? 受け入れるわけありません。相続できなければ彼らは無一文の無収入人間になってしまうからです。
「勿論俺らは抵抗するで! 拳で」
納得がいかない弟に、領土を守ろうとする当主である兄、もっと複雑になってくると領地が相続されなかった父の弟、徐々にですが兄弟同士が争い合う関係が出来てきました。
そして土地問題からあぶれた集団は幕府の支配権力に従わず実力で土地などを奪取しようとする悪党に変化していったりします。
後醍醐天皇「ワイに力を貸してくれたら君らの土地支配認めてやるで!!」
時が少し進み、いろいろな要因から鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による建武政権が誕生し、知らぬ間にそれが分裂し、足利尊氏が室町幕府を作り天皇を立て北朝となり、後醍醐天皇は吉野に逃げ南朝となり南北朝という時代(朝廷が二つあるという体制)が訪れます。
さて相続権で揉めあってる彼らはどうするか……。
兄「ワイは室町幕府に支配権認めてもらったでっ! どやさっ」
弟「んじゃワイ、逃げた後醍醐天皇の味方になって兄の土地の支配権認めて貰うわ」
部外者「ん? なんか揉めとる、あそこの領地奪ったろw 倒した側が付いてた所と別の側に付いて支配認めて貰おw」
兄・弟「なんだお前……」
もっと時が経ちます。
時は応仁の乱以後の社会的に不安定な時代。
兄の子孫「彼奴は敵だ」
弟の子孫「彼奴は敵だ」
もはやこのころには家族であると呼べるほど血が近くなく、最早他人と呼べるほど血が遠くなっているのです。
ただ代々戦って揉めているという遺恨だけを遺して……。
優秀なものが当主となり無能なものは滅びる、戦国時代に至るまでの過程で土地のために身内がが争って奪い合っていいという風潮が暗にでき始めていたのです。
※それゆえに江戸時代では長男の家督相続を徹底するようにしていきます!
2 室町幕府の軟弱性
皆さん戦国時代って言ったら日本史の区分上何時代にあるか分かりますか?
そうですね室町時代から安土・桃山時代・江戸時代の初期までを戦国時代と言いますね!
ではもう一つ、日本史の南北朝時代って何時代にあったか分かりますか?
はい! 室町時代ですね!
まずもって鎌倉幕府というは個人の力によって倒されたものではなく後醍醐天皇をトップとした武士たちの連合的な勢力に倒されます。
ですので、尊氏以外にも鎌倉幕府を打倒したときの功労者は大勢いてその人たちも尊氏並みに恩賞を貰っております。
そんな中で尊氏は後醍醐天皇と揉めた末に室町幕府を設立します。
室町幕府というものは成立時から政権が安定しない状態から始まっている訳であり、後醍醐方に対抗するためには味方を多く集める必要があり土地というエサをもって味方を募っているため幕府の領地は案外ちっさかったりします。
室町幕府は3代義満の時に権力の絶頂を迎えますが……。
そこに上り詰めるために敵を倒すだけではなく、味方までも倒し粛正し謀略に陥れ領地を奪い、有力勢力を転封し自身の力を強くしてきているのです。
はい……。
優秀な人間がやればこのように多大なる権力を得ることが出来ます、ただ……。
足利義教「俺に権力集中させたるでぇぇぇぇ! いうこと聞かん奴は粛正だね! 言うこと聞かない延暦寺は焼き討ちだね!×3 関東の問題にも介入します! 有力守護代の家督相続にも介入します! 」
赤松「あかん、このままじゃ俺は死ぬ、ならばいっそのこと」
義教「気に入らん奴は56す」
赤松「パーティやるからうち来ない? 池で泳いでる鴨が風流やで~」
義教「おっ、ええやん」
赤松「いましかないっ!」
そんな感じで恐怖で大名を支配しようとした義教は隙を突かれ有力ではあるが一守護大名でしたない者に暗殺されてしまいました。
そしてその後赤松氏と細川氏の間で新将軍を立て合い対立が起きます。
結局のところ赤松氏はこの戦いに負け将軍殺しの汚名を被せられそのまま一族は滅亡しますが……。
???「いや待てよ、将軍殺して新しい将軍立てればワイが幕府の実権握れるんじゃねぇ?」
下剋上という言葉がある。
なぜ下克上が起こるのか、それは一重に上である人間が弱いからなのである
これらの騒動から少しづつ力で権力を勝ち取るという風潮が巻き起こり始めてきた。
義教の後の将軍も政治能力もない幼い子供であり、実権は細川氏が握っており、早死。その後の義政もお飾りの将軍として育て上げられた。
その考えの正しさが証明されつつある中とある騒動が起こるのです。
将軍の後継者争い……。
応仁の乱が勃発します。
応仁の乱は京都で将軍の弟(を擁立する勢力)と息子(を擁立する勢力)の後継者争いから始まりました。
初期の方は小競り合い程度の戦いだけでしたが時が経つにつれ様々な勢力が介入し泥沼化、参加者たちも思わぬ規模の戦いに自領の事が手に負えなくなり、応仁の乱に参加していないナンバー2の者に統治を任せその者の決定権はどんどん増えていき、敵対した者同士の中では京都の戦いだけではなく戦っている相手の領地の攻撃を指示するものが現れるなどして、戦火は全国へと広がっていきました。
ナンバー2に統治権だけではなく若干軍権を委ねるようになってきたね……。
混乱の中どさくさに紛れて荘園などを分捕る武士が現れたり、寺社や貴族たちの荘園には土着の武士が台頭してきます。
あまりの混乱に京都周辺から地方に下り、そこで一大領主になる貴族が現れたり、公家を匿うことで家柄を上げる行為なども横行します。
こんな混乱した社会情勢の中取り合えずは中央で十数年続いた応仁の乱は終結したのですがはっきりと勝敗はつかぬまま両者痛み分け……。
殿「帰って来たぞぇ」
ナンバー2「なんだお前」
下剋上という言葉がある。
なぜ下克上が起こるのか、それは一重に上である人間が弱いからなのである。
人間どんな時代でも偉くないのに偉そうにしているのはムカつくものである。
力のない人間が声だけ大きくてああだこうだ言ってくるとそれはムカつくものである。
応仁の乱で領地経営をおろそかにし戦いに明け暮れ、勝もせずにただただ疲弊した軍を引き連れ返ってきた当主という存在はただただ邪魔な存在でしかないんのである。
ナンバー2「彼奴いない間ワイがこの国統治出来てたしワイ統治の才能あるんじゃね? ある程度軍も動かせるし……」
殿「んじゃぁ、君またワイの下で働いてね!」
ナンバー2「は?」
この時代になると自らの土地の正当性を力をもって保証してくれる人間などおらず、日々各地で一揆や他勢力からの侵攻などが起こり、国内も主君の地位を転覆させようとするもの(兄弟・有力家臣)ばかりで、土地の正当性を証明するためには軍事力で勝ち取るしかなかったのである。
応仁の乱後も室町幕府の権威は弱体化したものの残ってはいたが、幕府は他勢力と同様に軍事力で周囲に力を見せつけるために六角氏という周囲の武将を攻めますが惨敗。
その後10代将軍の時に細川氏によって将軍が追放され11代将軍が立てられたことにより(ちなみにこの追放された将軍は帰ってきてまた将軍やります)←
室町幕府の権威は失墜し、将軍は自らの権力を保証してくれる実力者の後ろ盾で就任し、実力者は将軍権力を借りる事で支配の正当性を確保するという関係が生まれた。
戦乱は収まる気配もなく東日本で力を持っていた足利家の分流も北条早雲によって下剋上に遭い各地では戦乱を呼び、こうした状況から各地で戦国時代が幕を上げることになる。
そしてまだこの時代は皆々自らの土地を守ることが精いっぱいで全国統一を掲げる事など夢のまた夢であり、せいぜい足利家の将軍を立て実権を握ることが天下を統べる唯一の方法であった。(信長も最初は足利義昭立てる)
3
まとめ
日本に戦国時代が訪れた理由
・相続問題などから各地で不満が溜まっていてちょうどここで爆発したため。
・そもそも室町幕府の成立の仕方が余り良くなかった。
・慢性的に室町幕府の力が強くなかった。
・将軍を挿げ替え新たな将軍を立てれば実権を握れるという風潮が出来ていた。
・大名が長い間自領を開け過ぎだ。
・室町幕府終焉まで幕府に飾りとしての機能と権威は残っていた。
終わりに
ここまで長い分を読んでいただき有難うございました。
分かりやすく書こうとしたけれども多分難しく書かれていると思う……。
書きたいことを書きつつ分かりやすく書くって難しい。
島津家の関ヶ原
++++++
ニコニコ動画にアニメドリフターズ全12話無料公開されてて見返してみたらやっぱヒラコーの作品って面白いなぁって感動したんで少しでも作品を楽しんでもらうために関ケ原の戦いにおける島津家の動向をかるーい感じで書いていきたいなぁと思います。アニメでは関ケ原の戦いの中途半端なところから始まるので
⊕ アニメドリフターズは5月10日まで無料公開されています、見ておられない方は是非ともご視聴を。
是非とも漫画の方も面白いので余裕のあるかたはご購入をお勧めします!(全然新刊出ませんが)
関ヶ原の戦いは上杉景勝(直江兼続)とのレスバに負けて逆上した徳川家康が
徳川家康「よし、お前ら上杉さん倒しに行くぞぉぉぉぉぉ!」
大名「うぉぉぉぉぉ」
石田三成「お前何勝手に上杉さん倒そうとしてんの? 俺たち豊臣家一同勝手なことする徳川家を倒しに行くぞぉぉぉ」
大名「……」
(三成には地位も人徳もないため総大将には成れず)
毛利輝元「家康倒しに行くぞぉぉぉぉ」
大名「うぉぉぉぉ」
家康「やったぜ、これでやっと邪魔な敵をまとめて倒せる」
みたいな感じで家康の挑発にまんまと乗った三成が挙兵を行い関ケ原の戦いは始まりました。
徳川家vs豊臣家の戦いのイメージが良く連想されますが、関ケ原の戦いはまだ豊臣家のNO.2を決める戦いです。
元々は上杉家を倒すための戦いなので
家康「これから上杉じゃなくて石田と戦うけど西軍に付きたい奴は行っていいよ」
福島正則「石田嫌いだから家康さんについていきます」←母が秀吉の母と姉妹
加藤清正「石田嫌いだから九州の石田に味方した奴潰しときます、ちっすちっす」←秀吉の母の親戚
山内一豊「家康さんに城明け渡します」←豊臣恩顧の家臣
みたいな感じでその場にいるほどんどが家康の味方をすることを誓いました。
豊臣家の親族にも徳川家に豊臣家が乗っ取られるという危機感は無く豊臣秀頼(秀吉の子)の補佐を誰がするかの対立が激化した結果だと捉えられていました。
ちなみに西軍の総大将は石田三成ではなく五大老の一人である毛利輝元という人です。
とまぁ関ヶ原本戦に参加した東軍は家康本軍と元々上杉家を倒すために集まったメンバーが空気を読んで家康に付き従いついてきたものが殆どです。
ただ勿論中には上杉征伐に加わろうとしたものの西軍に味方した人物もおり、三成との美談で有名な大谷吉継や真田幸村で有名な真田家などは東軍に寄りでいながらも最後は西軍に付きました。
島津家も元々は上杉家を打倒するために京都に来たものの家康の京都不在を狙い石田三成が挙兵しており西軍東軍どちらかにつくことを迫られます。
尚前年に島津家の重臣が謀反を起こし島津家はお家騒動が起こっており、情勢が不安定な島津勢は1000人の軍勢しか連れてくることが出来ずにいる状態であった。結果的にこの兵力温存が西軍に味方した島津家が取り潰されないで済む要因になる。
島津家は当初は東軍に付くことを考えており、三成挙兵により京都周辺で孤立している(家康本軍は上杉征伐の為東国)徳川家康の重臣である鳥居本忠が守る伏見城に救援に参じたのだが、鳥居本忠に入城を拒否されたために、西軍に味方し伏見城を落とします。←
しかし西軍側の石田三成はたかだか1000人の軍勢である島津家を軽視しており、関ケ原本戦の前の戦で島津家を見捨てたり、関ケ原の戦い直前の作戦会議で島津方の提案した夜襲を却下したりと島津勢に対する杜撰な態度が目立ったと言われています。
※オレンジ丸が何らかの形で東軍に内応していた軍or寝返った軍 水色丸が関ヶ原本戦で西軍として戦っていた軍。
と、こんな感じで西軍はごく一部しか関ヶ原本戦で戦っておらず、殆どが傍観。
島津家も関ヶ原本戦に参陣こそしたものの石田三成の命令を無視。(此奴ら何のために関ケ原きたの……)
島津勢は守りに徹して動かず、三成からの救援要請の使者が下馬しなかったために豊久が激怒して追い返したという話も残っており、味方との連帯を全く取らなかった。←
ちなみに総大将である毛利家は徳川家の後ろに陣取っているにも関わらず徳川家と内応してたため全く動きません()
結局関ヶ原の戦いは西軍である小早川秀秋が東軍に寝返ったために西軍は総崩れとなり敗走。
負けが確定した西軍を見て
島津義弘「うわぁ、関ケ原の合戦のレベル低すぎ……。薩摩武士5000人連れてきてたらこの戦勝ってたわ」
的なことを何度もつぶやいたらしい……。
ただ島津方には敗走の情報が伝えられず島津勢が西軍の敗北を知るころには敗走する西軍を追撃する東軍によって退路を断たれた島津勢は孤立、そしてこの時点で島津勢は300人まで減っていたと言われています。
絶体絶命の窮地に陥れられたその結果島津家は……。
『なぁに後ろに逃げることができないなら敵中を突破してしてそのまま撤退すればええじゃないか』
という感じで勝ちムードにあふれていた東軍方に突如突撃を開始。←
関ヶ原の西軍の敗戦を受けて切腹しようとしていた義弘を豊久が止めたという話もあったり、なかったり。
(ドリフターズはここら辺から始まります)
300人の兵士が捨て奸と呼ばれる「ここは俺に任せて殿は先に行ってください」的な足止めを行い、なぜか逃げてく側のはずなのに敵将を負傷させたりした。
勝ち確だった東軍の士気が低かったというのもあるが……。
捨て奸とは銃撃の後に刀や槍に持ち替えて敵に突撃して死ぬまで戦うという時間稼ぎ戦法。
アニメでちょろっと出てきたこの人とか
豊久にやられたこの人とか実は超有能な人物だったりするんですよ。
決して敵が弱かったわけではなく戦国最強だったり、徳川四天王筆頭だったり、徳川家4男だったりと相当なボスラッシュであったりもする。
ちなみに井伊直政は島津の追撃戦での島津勢の銃撃により負傷してその傷が原因で後日亡くなります。←
それとドリフターズには出てきませんでしたが家康の4男、関ケ原の先駆けを務めた松平忠吉という人物も島津の追撃戦中に傷を負いその傷が原因で亡くなります。
戦国最強として有名な本多忠勝も島津の追撃戦で落馬します(この時は相当高齢だというのもあるが)
もちろん捨て身の戦法を取った島津勢でもタダでは済まず、義弘が薩摩に到着するころには味方が80人しかいなかつたとか……。
この撤退戦で家老である長寿院盛淳や一族である島津豊久は討ち死にしました。
※豊久は一説によると9㎞先の寺まで落ち延び息絶えたとか? 槍に刺されて何度も宙に上げられ死んだとか? かなり早い段階で討ち死にしていたとか? 落ち延びたが落ち延びた先の村で落ち武者狩りにあったとか?
(ドリフターズの原作の内容は伝承とかコミでほぼあってたりする)
豊久は明確に討ち取られたという記録がないために生死不明による死亡扱いなためにドリフターズでは漂流者として選ばれた。
義弘が薩摩に帰還したすると島津家は徳川家の外交に奔走し、島津家は徳川本領から鹿児島は遠かったり、本軍を温存していたりと様々な偶然が重なり異例の本領安堵となった。
本領を安堵された島津家は明治維新の原動力の一つとなり、徳川幕府を終焉に追い込む原因の一つとなる。
島津家の子孫が幕末にやらかすのはまた別の話である。
今回の内容が動画にて表されております
とても分かりやすいので是非見てみてください。
オマケ
軽い人物紹介
アニメの登場シーンだけ見たらあまり優秀なイメージを持てないかもしれないが超規格外の人物。敵が強ければ強いほど自分も強くなる、超人 範馬勇次郎 孫悟空 鬼
当主である兄上がプロの引き籠りなため義弘が毎度毎度戦場で戦っていた。
3千の兵を300で破り、2万5戦の兵を3000ちょっとで破り、九州を統一しかけ、4万の兵を2万の兵で破り2万の兵を7千で破り、亀甲船で無双してた(教科書のあれ)李舜臣を戦死させたり、300人で8000人の敵に向かって突撃してダイナミック帰宅を果たした。
朝鮮役ではあまりの活躍ぶりから鬼石曼子(グイシーマンズ)として明・朝鮮軍に恐れられた。
それでもって茶の湯や医学に秀た文化人。
猫派。(猫の瞳孔で時間が分かる)
某半島でやったことが酷過ぎて大河ドラマ化されない()
豊久パパ、島津四兄弟の末弟にして釣り師であり、大将首コレクター。
島津のお家芸である釣り野伏の使い手(囮部隊が敵を伏兵の待つ場所まで誘導した後に包囲殲滅する戦法)
5人で有名な竜造寺四天王の首を取ったり、くまモンで有名な竜造寺隆信(竜造寺家当主)の首を取ったり、主が好きな長宗我部元親の嫡男信親の首を取ったり、オマケで十河存保の首を取ったりした。※あの織田信長でさえ大将クラスは今川義元の首一つしかとってない。
豊臣家に降伏後秀吉の弟に会いに行ったら体調が急変して亡くなった。
強すぎる家久を恐れて豊臣家が毒殺を計ったという説もある。
仙石秀久を主人公にした漫画センゴクでこの人のチートっぷりが見られます
島津家家系図
徳川四天王筆頭。男を別の何かに目覚めさせるほどのイケメン(衆道的な) ひこにゃんの元になった男のパパ。
鎧が赤で統一されているのは武田家臣団の旧臣を吸収した結果であり井伊の
赤備えと呼ばれる精鋭部隊に発展した。
戦では好んで戦陣に立ち、秀吉と家康の戦いである小牧長久手の戦いでは森蘭丸の兄である森長可を討ち取るなどして軍功を挙げ井伊の赤鬼として恐れられた。
関ケ原の戦いでは「ちょっとそこらへん見てくるわ」と見てくるついでで敵に突撃して先鋒を務める予定だった福島正則を騙して先鋒を飾った。
関ケ原の戦い終盤に島津との戦いで銃撃され、その傷が癒えることなく死去した。
母が秀吉の母の姉妹であり、下級武士上がりの秀吉には代々の家臣というものが存在せず血縁が重視されたため幼いころから秀吉に仕えていた。
賤ケ岳七本槍の一人であり、豊臣家の重要な戦のほぼすべてに参加している。
秀吉が亡くなった後には豊臣家のお友達と共に軍勢を率いて石田さんちに凸します。
関ケ原の戦いでは東軍に味方し、先陣を切る権利の確約を貰うも、井伊、松平勢に騙されて先陣を切ることはできなかった。
関ケ原の戦い後には広島県を領土として貰うも、台風によって城が破壊された場所を無断で修理したことにより武家諸法度違反で改易にあった。(正則は2か月前から城の修理の届け出を出していたが幕府は黙認していた)
その後も色々幕府に難癖付けられて正則の死と共にお家が取り潰しとなった。
終わり
此方の作品も5月10日まで無料公開されててお勧めです。
寝ても覚めても互いに殺し合う事しかしない連中
その末裔に 私たちの国(ロシア)は負けたじゃないの
日露戦争以後の話であり、幕末のフリー素材こと土方歳三さんも出てくる作品です。
歴史好きがにやっと出来るシーンがふんだんに盛り込まれてます。
ドリフターズの作者の前作です。
ナチスドイツがロンドン燃やしたり、クリーク、クリークしたりします。
諸君私は戦争が好きだでおなじみの少佐の有名な演説はこの作品で見れます
此方の本も読んでみることをお勧めします。
https://www.amazon.co.jp/HELLSING-1-ヤングキングコミックス-平野-耕太/dp/4785918705
此処までお読みいただき有難うございました。
初の仲間大会のお知らせ
第一次高虎杯(非Z+イッシュ地方限定仲間大会)
こんにちはyoutubeの方で配信者として活動していている高虎です。今回は初の仲間大会位についての詳細を記事にさせていただきます。
仲間大会は自由に配信していただいて構いません。
仲間大会のURL
【ルール】
※上の画像のポケモン、伝説・幻は禁止です。
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Zクリスタルの所持を禁止
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同じポケモン、同じ持ち物の使用を禁止
【開催日時】
2018年 9月15日 19時 ~ 9月16日 0時59分まで
(高虎は21時頃から生放送を開始します)
【景品】
1位の人から3位の人は順番に下記のものを選び獲得できます。
・望みの色ポケモンを孵化厳選する権利(A0、めざぱ指定は不可ですが極力努力はします)
・望みの伝説・準伝・UBを厳選する権利(めざパまでやります)
・色ボスゴドラ
※これ以外にも20位までは何らかの景品を作ります。
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