ポケ鏡止水

高虎のブログ ポケモンや歴史の事を話します

なぜ日本に戦国時代が訪れたのか!?

 どうも高虎と申すものです。

 前回と同じく戦国時代について出来るだけ分かりやすく説明して行きたいと思います!

※注意書き 今回の記事の内容は人によって捉え方が異なってくるのでこの記事が正しいという話ではないです。興味を持った方は自分で調べて判断してみてください。

 

 歴史は調べれば調べるほど味が出てくるスルメみたいなものです!

 

 

 

 今回は戦国時代の根本に迫る、何故日本に血で血を洗うような戦乱の時代である戦国時代が訪れることとなったのか? 戦国時代の始まりについて書いていきたいと思います。

 

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1 武士社会の矛盾

 

戦国時代の話を始める前に……。

 

そもそも武士って元はどんなだか知ってますか?

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実は武士というのは元々は農民なのです! 

 

農民の生活基盤に必要不可欠なものはなんだか分かりますよね?

 

 そうです、土地です。

 

 ですので、武士というものは根源的に土地に人一倍の執着があり、土地のためなら命を賭しても構わない存在であり、それゆえに一所懸命などという言葉が生まれたりなどしたのです。

 

 もちろん都などには貴族のボディーガードなどをしていた職業(クラス)武士もいたのですが、それらは平家の滅亡、承久の乱後鳥羽上皇による反乱)、などに敗戦した結果、元が貴族であるという西国の武士の概念は衰退し、上記の起源は農民であるという東国(源氏)の武者の概念に取り込まれて行きました。

 

 この農民上がりの武士は無法者や朝廷権力から実力で土地を守るために武装した集団であり、争いばかりの彼らが望んでいたものは自分の土地の所有権を証明してくれる力のある誰かだったのです。

 そしてそれが鎌倉幕府であり、頼朝自身も中央(当時は平家が勢いを持っていた)から独立した権力機構を作るためには東国の武士の力が必要であり、彼らが求めている土地の支配権を証明する存在となることで味方を増やし、土地の所有権を認められた彼らはその見返りとして今までは防衛に使ってきた軍事力を鎌倉に貸したのです。

 

 この関係があの有名な御恩と奉公の関係です。

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 とまぁ御恩と奉公には戦う敵と与える領地があるということが大前提で結ばれています。

 

 そのために幕府(北条家)は鎌倉で聖杯戦争()を定期的に開催して、戦う敵(幕府成立時からの重臣、功労者なためいっぱい土地持ってるよ)を意図的に作り出しては殺し、その敵(将軍家も殺されます)から奪った領地を自領にしたり、恩賞を分け与えたりと必死になってこの契約関係を守ろうとしていたのです。

 

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 ちょっとだけ話は変わりますが、鎌倉時代の相続方法ってご存知ですか?

 

 鎌倉時代の相続方法は分割相続が主流でした。そしてなんと鎌倉時代は男性だけではなくて女性にも財産相続の権利があったのです!

 

 

 さて話を戻しますと、この御恩と奉公の関係は戦う敵と恩賞として与える領地があるということが大前提で結ばれています。

 今までは身内を殺し、これを守ってきていたのですがそこにイレギュラーな敵が現れます。そうです、もうこ(⌒,_ゝ⌒)です。

 

 元軍、蒙古(モンゴル帝国)が日本に攻めてきます!

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 皆様ご存知の通りこの戦いは武士の活躍によって元軍は撃退されます。そうです、この戦いは武者の活躍によって勝利します。

 

 そうです……。

 

 

 この戦いに勝利した北条家は思いました

「あれ? どうやって褒美を与えたらいいんだ?」

 

 今回の戦いは防衛戦であり、領地が取れる戦いではありません ←

 

 そして、皆さん元寇が起こったあたりの年代にすこしスポットを当ててみてください。

 

 1回目 文永の役1274年 2回目 弘安の役1281年

 鎌倉幕府成立年(頼朝が東国支配権を樹立した年)1180年

 

 なぜ鎌倉幕府の設立年を挙げたかというと、すこし前の話を思いだして見てください。

 このころの武士の相続方法は分割相続なのです、そして元寇の頃には100年が経過しております。

 幕府成立時から子供の子供、孫やそれ以上の代を刻んでいてもおかしくはない月日は流れています。土地は半分の半分の半分、兄弟などがいたらもっと狭き土地になっている頃です。

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 はい、もうこの相続方法ではやっていけない破綻寸前の状態でモンゴル軍が日本に来たのです。

 そりゃぁ、みんな多少は無理をしてでも戦いに行って功績を挙げに行きます。

 

 幕府「いや、今回与えられる恩賞なんてねぇから」

 

 御家人は衰退しました()

 分割相続も衰退しました()

 悪党は誕生しました()

 

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 分割相続に無理があることに気が付いた人々は分割相続を辞め、嫡子一人が相続をして行くスタイルに移行していきます。

 が……。

 今までは相続権があったのに急にそれがなくなった人々はそれを受け入れるでしょうか? 受け入れるわけありません。相続できなければ彼らは無一文の無収入人間になってしまうからです。

 

 「勿論俺らは抵抗するで! 拳で」

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 納得がいかない弟に、領土を守ろうとする当主である兄、もっと複雑になってくると領地が相続されなかった父の弟、徐々にですが兄弟同士が争い合う関係が出来てきました。

 そして土地問題からあぶれた集団は幕府の支配権力に従わず実力で土地などを奪取しようとする悪党に変化していったりします。

 

後醍醐天皇「ワイに力を貸してくれたら君らの土地支配認めてやるで!!」

 

 時が少し進み、いろいろな要因から鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による建武政権が誕生し、知らぬ間にそれが分裂し、足利尊氏室町幕府を作り天皇を立て北朝となり、後醍醐天皇は吉野に逃げ南朝となり南北朝という時代(朝廷が二つあるという体制)が訪れます。

 さて相続権で揉めあってる彼らはどうするか……。

 

兄「ワイは室町幕府に支配権認めてもらったでっ! どやさっ」

弟「んじゃワイ、逃げた後醍醐天皇の味方になって兄の土地の支配権認めて貰うわ」

部外者「ん? なんか揉めとる、あそこの領地奪ったろw 倒した側が付いてた所と別の側に付いて支配認めて貰おw」

兄・弟「なんだお前……」

 

 もっと時が経ちます。

 時は応仁の乱以後の社会的に不安定な時代。

 

兄の子孫「彼奴は敵だ」

弟の子孫「彼奴は敵だ」

 

 もはやこのころには家族であると呼べるほど血が近くなく、最早他人と呼べるほど血が遠くなっているのです。

 ただ代々戦って揉めているという遺恨だけを遺して……。

 

 優秀なものが当主となり無能なものは滅びる、戦国時代に至るまでの過程で土地のために身内がが争って奪い合っていいという風潮が暗にでき始めていたのです。

 

 ※それゆえに江戸時代では長男の家督相続を徹底するようにしていきます!

 

2 室町幕府の軟弱性

 

 皆さん戦国時代って言ったら日本史の区分上何時代にあるか分かりますか?

 

 そうですね室町時代から安土・桃山時代・江戸時代の初期までを戦国時代と言いますね!

 

 ではもう一つ、日本史の南北朝時代って何時代にあったか分かりますか

 

 はい! 室町時代ですね! 

 

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 まずもって鎌倉幕府というは個人の力によって倒されたものではなく後醍醐天皇をトップとした武士たちの連合的な勢力に倒されます。

 ですので、尊氏以外にも鎌倉幕府を打倒したときの功労者は大勢いてその人たちも尊氏並みに恩賞を貰っております。

 そんな中で尊氏は後醍醐天皇と揉めた末に室町幕府を設立します。

 室町幕府というものは成立時から政権が安定しない状態から始まっている訳であり、後醍醐方に対抗するためには味方を多く集める必要があり土地というエサをもって味方を募っているため幕府の領地は案外ちっさかったりします。

 

 室町幕府は3代義満の時に権力の絶頂を迎えますが……。

 そこに上り詰めるために敵を倒すだけではなく、味方までも倒し粛正し謀略に陥れ領地を奪い、有力勢力を転封し自身の力を強くしてきているのです。

 

 はい……。

 

 優秀な人間がやればこのように多大なる権力を得ることが出来ます、ただ……。

 

 足利義教「俺に権力集中させたるでぇぇぇぇ! いうこと聞かん奴は粛正だね! 言うこと聞かない延暦寺は焼き討ちだね!×3 関東の問題にも介入します! 有力守護代家督相続にも介入します! 」

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赤松「あかん、このままじゃ俺は死ぬ、ならばいっそのこと」

 

義教「気に入らん奴は56す

赤松「パーティやるからうち来ない? 池で泳いでる鴨が風流やで~」

義教「おっ、ええやん」

赤松「いましかないっ!」

 

 そんな感じで恐怖で大名を支配しようとした義教は隙を突かれ有力ではあるが一守護大名でしたない者に暗殺されてしまいました。

 

 そしてその後赤松氏と細川氏の間で新将軍を立て合い対立が起きます

 

 結局のところ赤松氏はこの戦いに負け将軍殺しの汚名を被せられそのまま一族は滅亡しますが……。

 

???「いや待てよ、将軍殺して新しい将軍立てればワイが幕府の実権握れるんじゃねぇ?」

 

 下剋上という言葉がある。

 なぜ下克上が起こるのか、それは一重に上である人間が弱いからなのである

 これらの騒動から少しづつ力で権力を勝ち取るという風潮が巻き起こり始めてきた。

 義教の後の将軍も政治能力もない幼い子供であり、実権は細川氏が握っており、早死。その後の義政もお飾りの将軍として育て上げられた。

 その考えの正しさが証明されつつある中とある騒動が起こるのです。

 将軍の後継者争い……。

 

 応仁の乱が勃発します。

 

 応仁の乱は京都で将軍の弟(を擁立する勢力)と息子(を擁立する勢力)の後継者争いから始まりました。

 初期の方は小競り合い程度の戦いだけでしたが時が経つにつれ様々な勢力が介入し泥沼化、参加者たちも思わぬ規模の戦いに自領の事が手に負えなくなり、応仁の乱に参加していないナンバー2の者に統治を任せその者の決定権はどんどん増えていき、敵対した者同士の中では京都の戦いだけではなく戦っている相手の領地の攻撃を指示するものが現れるなどして、戦火は全国へと広がっていきました。

 

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 ナンバー2に統治権だけではなく若干軍権を委ねるようになってきたね……。 

 

 混乱の中どさくさに紛れて荘園などを分捕る武士が現れたり、寺社や貴族たちの荘園には土着の武士が台頭してきます。

 あまりの混乱に京都周辺から地方に下り、そこで一大領主になる貴族が現れたり、公家を匿うことで家柄を上げる行為なども横行します。

 こんな混乱した社会情勢の中取り合えずは中央で十数年続いた応仁の乱終結したのですがはっきりと勝敗はつかぬまま両者痛み分け……。

 

殿「帰って来たぞぇ」

ナンバー2「なんだお前」

 

 下剋上という言葉がある。

 なぜ下克上が起こるのか、それは一重に上である人間が弱いからなのである。

 人間どんな時代でも偉くないのに偉そうにしているのはムカつくものである。

 力のない人間が声だけ大きくてああだこうだ言ってくるとそれはムカつくものである。

 

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 応仁の乱で領地経営をおろそかにし戦いに明け暮れ、勝もせずにただただ疲弊した軍を引き連れ返ってきた当主という存在はただただ邪魔な存在でしかないんのである。

 

 

ナンバー2「彼奴いない間ワイがこの国統治出来てたしワイ統治の才能あるんじゃね? ある程度軍も動かせるし……」

殿「んじゃぁ、君またワイの下で働いてね!」

ナンバー2「は?」

 

 この時代になると自らの土地の正当性を力をもって保証してくれる人間などおらず、日々各地で一揆や他勢力からの侵攻などが起こり、国内も主君の地位を転覆させようとするもの(兄弟・有力家臣)ばかりで、土地の正当性を証明するためには軍事力で勝ち取るしかなかったのである。

 

 応仁の乱後も室町幕府の権威は弱体化したものの残ってはいたが、幕府は他勢力と同様に軍事力で周囲に力を見せつけるために六角氏という周囲の武将を攻めますが惨敗。

 その後10代将軍の時に細川氏によって将軍が追放され11代将軍が立てられたことにより(ちなみにこの追放された将軍は帰ってきてまた将軍やります)←

 室町幕府の権威は失墜し、将軍は自らの権力を保証してくれる実力者の後ろ盾で就任し、実力者は将軍権力を借りる事で支配の正当性を確保するという関係が生まれた。

 

 戦乱は収まる気配もなく東日本で力を持っていた足利家の分流も北条早雲によって下剋上に遭い各地では戦乱を呼び、こうした状況から各地で戦国時代が幕を上げることになる。

 

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 そしてまだこの時代は皆々自らの土地を守ることが精いっぱいで全国統一を掲げる事など夢のまた夢であり、せいぜい足利家の将軍を立て実権を握ることが天下を統べる唯一の方法であった。(信長も最初は足利義昭立てる) 

 

3 

 

まとめ

 日本に戦国時代が訪れた理由

・相続問題などから各地で不満が溜まっていてちょうどここで爆発したため。

・そもそも室町幕府の成立の仕方が余り良くなかった。

・慢性的に室町幕府の力が強くなかった。

・将軍を挿げ替え新たな将軍を立てれば実権を握れるという風潮が出来ていた。

・大名が長い間自領を開け過ぎだ。

室町幕府終焉まで幕府に飾りとしての機能と権威は残っていた。

 

 

 終わりに

 ここまで長い分を読んでいただき有難うございました。

 分かりやすく書こうとしたけれども多分難しく書かれていると思う……。

 書きたいことを書きつつ分かりやすく書くって難しい。

 

 

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