ポケ鏡止水

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関ケ原の戦い解説(中)

 この記事を見ていただき有難うございます。
 どうも高虎と申すものです。

 

 

 この記事は前の関ケ原の戦い解説の続きとなっております、前の記事を見ていない方は是非読んでみてください。

 

注意書きと謝罪 今回で終わらせるつもりでしたが色々と筆が乗ってしまった結果、関ケ原の戦いの前哨戦だけで相当長く書いてしまいました、これ以上書くと描き手も読み手もダレると思ったので分割させていただきます。

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1.関ケ原の戦いの前哨戦

 西軍東軍共に続々と軍が東海地方に集結しつつあった。

 

【東】8月5日 徳川家康が江戸に入る。そこから東西両軍が東海地方を巡って抗争を拡大させていく中家康は翌9月1日まで江戸を動くことは無く情勢を静観していた。

 一説には福島正則などの豊臣恩顧の武将の忠誠を試すため動かなかったとされている。

 

【西】 8月8日 吉川正家、安国寺恵瓊長束正家が伊勢平定の為伏見から伊勢方面へ出陣。

 伊勢方面は小大名が割拠する地でありまた三成の佐和山城や京都にも近く、東軍に付いた諸将も大勢存在するために西軍としては伊勢を落とさねばならない重要な地であった。

 

【東】8月8日 越前を進行中の前田利長大谷吉継が本領金沢を強襲するとの情報を得たために金沢に向かい軍を引き返す。

 

【西】 8月9日三成が垂井(関ヶ原へ) この時点で西軍は木曽川を挟んで東軍との決戦を想定していた。

 

【東】 8月9日 金沢に撤退中の前田軍に、小松城の丹羽長重に奇襲攻撃を受け浅井畷の戦いが起こる。

 前田軍は加賀南部に攻め入る際に小松城に最低限の兵士しか配置せずに半ば無視し、大聖寺城し侵攻した。そのため小松城に十分な兵力が残っており、前田家の撤退を狙われた。この戦いで丹羽長重は敗北若しくは引き分けに終わったものの前田勢は大きな痛手を負って金沢に撤退することになる。

 

【東】8月14日 東軍先鋒部隊が福島正則の居城清須城に入る。家康の出馬を待ちつつ、兵の集結を計る。

 

木曽川・合渡川の戦い

 

【東】8月19日、黒田長政福島正則らは家康の出馬なしに軍事行動に出ると井伊直正を通して報告。東軍としては美濃方面に出るためにも木曽川を渡る必要があり、渡川先の地域を支配している織田信秀の籠る岐阜城を落とす必要があった。

 そのために東軍先鋒部隊は池田・浅野勢1万8千と福島・黒田・井伊1万6千の2つに部隊を分けて、河田(こうだ)の渡と下流(おこし)の渡から渡河することを決めた。

 8月21日 福島、黒田隊が木曽川の渡河を試みるが、西軍の軍勢に阻まれ断念()その夜下流の加賀野井(現一宮市)から船で渡河。

 8月22日、東軍の渡川を察知した西軍は竹ヶ鼻城に退却、同日福島勢による攻撃が開始された、両軍熾烈な戦いを繰り広げるも、竹ヶ鼻城に福島正則と旧知の将が守っており開城交渉の末本丸以外は降伏をした。本丸の杉浦勝重も最後まで戦ったものの自刃し竹ヶ鼻城は開城した。

 同日 明け方池田、浅野幸長五奉行浅野長政の長男)、山内一豊勢が木曽川の渡河を開始、西軍織田信秀勢に鉄砲を撃ちかけられる。(河田木曽川渡河の戦い)

同日昼、中州部分に到達した池田隊はそこで陣を張り(現岐阜県各務原市)、対岸の米野まで進出し、そこで両軍は激突することになる(米野の戦い)

 

 この戦いが行われていた頃西軍は毛利勢が伊勢に、大谷勢は前田家との戦いのために越前に、そして細川幽斎は以前田辺城に籠っており1万5千の部隊は丹後に釘付けになっており、石田三成は本軍を送ることがままならず。織田信秀も二方向からの進軍の為兵を広域的に展開したために数で勝る東軍に押されることとなり、西軍は木曽川の渡河を許すこととなってしまった。

 

8月23日 木曽川の渡川に成功した両部隊は合流し、織田信秀の籠る岐阜城に攻撃を開始。城主の信秀は西軍の拠点である犬山城大垣城に救援を求めたが……。

岐阜城は1日で陥落してしまった。← 織田信秀は降伏し下山した後に剃毛し高野山に入った。

 また犬山城は東軍に内応していた。

 この時大垣城から石田勢が救援部隊に駆け付けようとするも途中で黒田・藤堂勢に攻撃に遭い撤退、黒田・藤堂勢は一時赤坂・垂井(関ヶ原)方面まで進出することとなる。

 

 

三成「お願い、落ちないで岐阜城!あんたが今ここで倒れたら、木曽川を中心とした東西決戦約束はどうなっちゃうの? 岐阜城はまだ残ってる。ここを耐えれば、東軍に勝てるんだから!」

次回、「岐阜城落城」。デュエルスタンバイ!


 西軍は岐阜城が1日で落ちることは想定しておらず、木曽川を中心とした東西両軍の決戦の考えがここに破綻してしまい、西軍は大きく軍略を見直さなければならないこととなった。また東軍は岐阜城を落としたことにより木曽川を無傷で渡れることとなり、また美濃に勢力圏を築けることとなった。

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 西軍の伊勢平定

【西】8月23日 毛利・鍋島・長宗我部勢は伊勢にある安濃津城に攻撃を開始(安濃津城の戦い)

 

 東軍に味方した富田信高・分部光嘉(わけべ)などの伊勢の大名たちのは家康の会津征伐に付き従っており、小山の地で家康に味方することを表明した。家の大名たちは評定後急遽伊勢へと帰還した。伊勢湾の横断中に西軍に与した海賊大名と名高い九鬼嘉隆の船団に補足されるも、伊勢国へ上陸し、各々らの城に帰還し西軍を待った。

 しかし西軍の軍勢が余りにも大勢であったために、分部光嘉は寡兵では西軍を食い止められないと判断し、伊賀上野城を放棄し安濃津城に入り、また伊勢の東軍方の諸将も安濃津城に兵を送るなどして安濃津に兵が集結、伊勢一番の東西決戦の兆しが高まっていた。富田氏は家康に安濃津決戦の事を伝え西上を速めてもらうことを要請しようとしたが伊勢の海上は九鬼氏によって封鎖されており、伊勢の諸将は独力で西軍と対抗しなければいけない状態であった。

 

一方西軍は当初の木曽川決戦時に持ち込むために、東軍の伊勢方面への侵攻を未然に防ぎ、また両軍が木曽川を挟み対陣したときに、伊勢方面から尾張方面へ奇襲攻撃を仕掛けるためにも伊勢の平定はとても重要なことであった。

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8月24日 安濃津城の戦い 前日の小競り合い的な戦いとは打って変わりこの日に激戦が繰り広げられる。分部光嘉の毛利勢との一騎打ちや富田信高の妻が武装して戦いなどの逸話があるの守り側は劣勢であった。

翌25日 毛利氏の勧告により安濃津城兵は開城を決意しここに戦いは終わった。西軍は伊勢の一大勢力の打倒に成功したがまだ各地に抵抗勢力が残っていた、ただその勢力の駆逐も時間の問題となっていた。

 

 この戦いで家康方と内通しているはずの吉川広家が奮戦したりするなど、一時広家と家康の仲介役である黒田長政が顔色を変えたという、またこの戦いに参戦していた鍋島直茂の子である勝茂は父の命により戦線離脱することとなる(鍋島家は西軍に味方したものの東軍の勝利を確実視し、本線の前に戦線離脱し自領の九州に帰還し九州では東軍に味方し西軍と戦うため領地は安堵される)

 

【東】8月24日(1日時間が戻ります) 徳川秀忠が宇都宮から東山道へ進軍を開始する。

 

【東】8月27日 岐阜城陥落の知らせを受けた家康は東軍諸将に軍事行動を控えることを指示し、またこの日までに大垣城に石田・小西・島津勢は入城していた。

同日、池田隊によって関ヶ原を焼き払い赤坂・青野原に着磁ん

 

【東】9月1日に江戸を出陣。同日、福島・藤堂・黒田・田中隊が赤坂、垂井に着陣

 

【西】9月2日越前の大谷吉継が戸田、赤座、小川、朽木、脇坂隊と共に美濃関ヶ原に。

 

第二次上田合戦

 

【東】 9月2日 徳川秀忠信濃小諸城(こもろじょう)に入り、上田城真田昌幸に降伏勧告を行う。翌日、昌幸はこれを承諾。しかし、翌日には態度を一変東軍へ宣戦布告。

【西】 9月5日 砥石城を守る真田信繁(幸村)は兄真田信幸に城を明け渡し、上田城に退去。

翌、6日に東軍は上田周辺で穂刈を行いそれを阻止しようとした真田勢と戦い、真田勢は敗走を装い上田城に誘い込み、城内の伏兵や神川を決壊させるなどの戦略で徳川勢を食い止めたとされている。

9月9日 秀忠は上田城の包囲を解き小諸城に退却、翌日上田城攻撃を中止し美濃へ進軍。

 

 第二次上田合戦の戦に関しては不明な点が多くどのような度合いの合戦が行われたかは分かっておらず真田勢の秀忠を手玉に取るような合戦の内容は後世の創作とも言われている? しかし真田昌幸は7日間も徳川勢を信州上田の地に留めたことは史実であり、それにより徳川秀忠隊3万8千は関ケ原の戦い本戦に間に合わず遅参した。

 また親子分かれて戦った真田氏だが砥石城を明け渡したことにより、親子で刃を交えることなく、また砥石城を接収した真田信幸はその功績によりお家を存続させている。

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【東】9月3日(また時間が戻ります) 犬山城が開城し、犬山城に籠っていた殆どの諸将は東軍に付く。またその中には関ヶ原周辺を領地としてた竹中重門もいた。

 

 

 大津城の戦い

 

【東】9月3日 大谷軍の殿であった京極高次は居城である大津城に帰還。深夜、突如3千の兵と共に東軍方として籠城を開始。

 

 大津は越前、美濃、伊勢を繋ぐ要所であり、西軍本体のちょうど後方に位置する場所であり西軍側は後ろを突かれないためにも即急にこの寝返りに対処する必要があった。

 

【西】9月7日 西軍1万5千の軍勢が大津城を包囲し、攻撃を開始するも思うように攻めることが出来ず苦戦。大津城は15日に降伏し開城することととなる。

 

 大津城の戦いは東西軍の決戦の機運が高まってきている、すわその時に起こり西軍はその対応に追われた。そして大津城が開城した15日は関ケ原の戦い当日であり、結果は敗北であったものの京極高次は西軍1万5千人を大津に留め、関ケ原本戦に参加させなかったという功を認められ、京極高次は後に若狭1国の主となっている。

 

【西】9月7日 伊勢方面を攻めていた、毛利勢が関ヶ原の南宮山に布陣。

 

【東】9月11日、徳川家康が清須城に到着。
<移動経路>9/1江戸~神奈川、9/2藤沢、9/3小田原、9/4三島、9/5清見寺、9/6島田、9/7中泉、9/8白須賀、9/9岡崎、9/10熱田、9/11清須

家康は江戸~清須まで東海道 約370kmを11日間で移動した

 家康は諸将の暴走を懸念してかかなり速い速度で進軍を行っている。

 

【西】9月12日 和歌の達人であった細川幽斎を惜しんでか、勅命により田辺城の講和が成立し、幽斎は城を開城。

 西軍1万5千は2日後の本戦に間に合わなかった。

 

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【東】 家康本隊が岐阜城に入り、14日の夜明けに赤坂に向かう。

 

 

 

杭瀬川の戦い

 

【西】9月14日 家康が赤坂に軍を率い参陣したことにより千群は一時動揺、西軍の士気を回復するために島左近は東軍に奇襲をかけることとした。

 島左近は伏兵を忍ばせ東軍の中村隊を挑発しそれに乗った中村隊と中村隊の助太刀に来た有馬隊を撤退するとと見せかけつり出し、伏兵によって両部隊を撹乱し壊滅させ敗走に追い込んだ。

 こうして関ヶ原の戦い前日の杭瀬川の戦いは西軍の勝利となり西軍は大きく士気を上げた。

 

【西】同日、小早川秀秋8千は松尾山城に布陣した伊勢盛正(大垣城城主)を追い出し、布陣。

 大谷吉継小早川秀秋の離反を恐れ小早川秀秋の近くに布陣し、脇坂ら諸将を備えとして配置した。

【西】同日夜、石田・島津・小西・宇喜多隊が大垣城から関ケ原方面へ移動。

 

【東】西軍の移動の知らせを受けると東軍もそれに従い関ヶ原へ到着。福島正則黒田長政らを先頭に陣を構える。

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1600年9月15日 深い深い霧に包まれた関ヶ原で東西両軍は集結し相まみえることとなる。

 この日、日本史史上類を見ない大戦、関ケ原の戦いが起こることとなる。

 

 

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 あとがき
 読んでいただき有難うございました。

 今回は時系列を中心に関ケ原の戦い前までの両軍の状況を書かせていただきました、2回で終わらせると言って3回になってしまい申し訳ないです。

次回は関ヶ原本戦について書いていきますのでどうか楽しみにして待っていていただけると有難いです。

 

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 参考文献
関ヶ原から大坂の陣
小和田哲夫
関ヶ原」を読む 武将の手紙
関ヶ原前夜西軍大名たちの戦い
三成準治
徳川家康関ケ原の戦い
本多隆成
城びと

shirobito.jp

 戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

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